人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の裏側を垣間見たある俗人のたわごと

2014-10-04 20:02:25 | 雑感
このブログを始める直前、知人からこのようなコメントを貰いました。
「貴方は大いなる命と一体になった事があるそうですが、日常に戻った後も貴方はずっとその一体感を持ち続けているのですか、それとも意識はこの現世
にあるのですか?」
「唐突にシビアな事を訊くんだなあ…」と思いましたが、一瞬こんなことがよぎりました。
「そんなの何時も一体に感じてるのに決まってるじゃないかい!」
これはしかし、ウソです。そういうフリをしたいと思っているだけなのです。
ずっと、そんな境地で居られる人というのは、私からしたらそれこそ生き神サマ、活仏、もはや人間じゃない!です。
私なんぞ到底及ぶものではありません。
現世には現世にしか、味わえない楽しみも沢山有りますしねえ…
しかし、エゴというのはどこまでも人から称賛されたいと思うものなのですね。
悟りとか目覚めの境地には段階、レベルというのが有って云々…ということを言う人もあるようですが、私はそういう話はあまり信用してません。
レベルというものが有るという事は、至高のレベル、所謂最終解脱というものもあるらしいです。
私はしかし、それはエゴが造り出した幻想ではないかと思っています。
何故ならばエゴというものは、どこまでも際限なく上を目差そうとするものだからです。
それはエゴの集積とも言うべき、現代文明というものを思い起こせば容易に理解できるのではありませんか?
もし、目覚めに段階というものが有るとすれば、それはその気づきに対する受容、どれだけ受け入れられているか、理解の度合いといったものではないでしょうか?
その一瞬で理解してしまう人も居れば、何十年もかかる人も居れば、一生分からない人も居るかも知れない。
でもどの人も同一の世界に浸っているのかも分からないのです。
簡単に、固定したレベルのラベルを張ることなど出来るのでしょうか?
私が入るのを許された世界は、どっちが上とか下とか、優れているか、劣っているかなどあらゆる相対的観方というのが超克された、調和そのものの
世界でした。
上を目差そうなんていう発想はどっからも出て来ません。
第一、そうしようと思っても、何一つ為すことなど出来ないのです。
この事が念頭から離れた時、ヘンな虫がもたげ始めるのです。
どんなに高望みしたり、何かのフリなどしたってありのままの立ち位置から離れる事など出来ようはずが無いのに…
全てはその立ち位置から始まるというのに…
かくしてこのブログのコンセプトは決まりました。
人生の裏側を垣間見て…こんなところでしょうか。
ま、たまにはそこの常住者になってみたいとも思いますが…
気付かせてくれてありがとう。
よしさん。
コメント (1)
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