人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

台風一過と地殻活動

2014-10-06 18:00:36 | 覚醒
今日、東京は朝から台風が直撃、横浜に上陸したと伝えられるや、瞬く間に通り過ぎて行きました。
そして急速に天気も回復し、何事も無かったように穏やかな日和となりました。
近所の野良猫、シロクロ三兄弟も無事でなによりです…。

台風、地震、噴火…目覚めの体験というものを、私はよく不謹慎ながら災害につながるような自然現象に喩えて語ることが多いのですが、
あの意識が別次元へと移行していく過程は正に、暴風雨に見舞われる様です。
ゴーッというような風圧のようなものも感じますしね。
そしてやがてそれが過ぎ去り、再びこの「なんてこたアない」日常に戻されてしまい、「ありゃあ、一体何だったんだろう…」
と呆気に取られてしまうところなど、ホント台風一過です。
同じように、そこに喩えようのない、至福感、充足感に満ちた目覚めの体験も、体験そのものに目が奪われると、それは一過性のものになってしまいます。
「ずっとあの至福に浸りたい!」と願う気持ちも、よーく分かります。
浮世はつらいですから…。
私の場合も、2,3日して元の木阿弥になった時、何とかあの喜びをもう一度と願ったものでしたが、ずっとかなう事は有りませんでした。
残念ながらすぐに「生まれ変わって、新たに開かれた人生」を歩む、という訳にはいかなかったのです。
それよりも当時の私に必要だったのは、「ついに悟ったゾ!」と有頂天になってる頭を冷やすことに有ったようです。
前にも書いた、人にこの体験の事を話さなかった、その理由というのは話そうとするとエゴの虫が活性化して頭がカーッとのぼせ上がるから、という事だったのです(笑)
自分の意志でか、見えざる導師の指図でか(多分両方)その事を封印してしまったようです。
それから実に十数年後の平成8年春ごろ、書店で仏教学者、玉城康四郎先生の本を読んで驚きました。
全く私の目覚めとそっくりな事が書かれていたではありませんか!
「呆然自失」「木端微塵」「喩えようのない喜びがムクムクと…」「どうやって家まで帰ったか覚えてない」とか数日して元の木阿弥になるところもそっくりです。
これが玉城先生の生涯最初の「爆発」の模様です。
この種の記述はほとんど読んだことが無かったので、まるで千人ものサポートを得たような気がしたものです。
それから片っ端から玉城先生の本を見つけては読んでいたのですが、平成10年の晩夏「目覚めとか悟りというものは個人に帰されるものでない、個人が悟る訳じゃない」という言葉に触れて「ヒャーッ、何だ、そうだったのかあ!」と何かがストン!と落ちたようでした。
「そうだった!思い出した!あの時、個人の私は傍らで事態を見物してて、呆気に取られていただけだった…
もし、この自我というもので、それを捉えようとすると、それはスルリと抜けて行くだけだ。
私の体験なんてものは嵐の様に過ぎ行くだけ…」
するとその気づきに対するご褒美だか、どうか分かりませんが、一過性のものでない、恒常的に感じられる有る感覚が芽生え始めました。
それは普段は目立たないものですが、どこにも過ぎ去る事無く常にあるものです。
それは言うなれば、あの至福感、充足感のそもそもの源です。
はかない至福や充足を求めるより、この源をこそ訪ねるべきなのです。
それは目も眩むような天よりも、全く目立つことの無い、我々の足元に有るようです。
その下には、命のマグマが活動してやむ事が有りません。
時に唐突に噴出して、その存在をアリアリと表すことも有ります。
貴方にもその兆しのような微動を感じませんか?…
コメント (2)
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