人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の裏側を垣間見たある俗人のたわごと(その2)

2014-10-25 21:38:32 | 雑感
今日はある交流会へ行ってきました。
10人くらいの小人数の集まりでしたが、様々な意見も飛び交い易く、私にはこのくらいの規模が丁度いいと思いました。
このような集まりが同時発生でアチコチに生まれ、やがて点と点が結ばれて…という展開になればなあ、と願っています…。
そこでの話の中でも、帰りの電車の中でも所謂覚醒体験、ワンネス体験といったものに触れたのですが、
前に「覚醒の一人歩き」のテーマで書いたことが、やはり現実に起きているのかなあ、と思わされました。
あまりにも安易に語られ過ぎている…
瞑想修行というものがそのことに焦点が当てられ過ぎている…
そこで私はどうしても次の様に言いたいです。
「覚醒体験すればいいってもんじゃないですよ!」と。
繰り返すようですが、体験そのものはスポット的なものに過ぎません。
それは物心ついてから、今日に至るまでの(あるいは今生以上の)全人生と切り離されて有るものでは無いのです。
言葉が出たついでに言えば、その眩い体験とは、その人生にスポットライトが当てられたようなものというべきでしょうか?
電車の中である人から「覚醒して貴方の人生は変わりましたか?」と聞かれました。
その場では明言しなかったのですが…
いやはや…これから目覚めようとしている方は読まない方がいいかも知れません…。
昭和58年の夏にそれは起こったのですが、翌年4月頃から一年近くまるで運命から見放されたような日々が続きました。
そうですね…恩寵から見放された人生がどんなものか、その一端が示されたようでした。
「こんなハズじゃないんだけどなあ…」と思ったってどうにもなりゃしません。
その頃私は同居していた猫を捨てたことがあったのですが、その報いかとも思いました。
又当時巷では、惑星直列だの富士山が爆発するだの、不穏な空気も漂っていました。
でも一番思い当たるフシは…あの体験を封印したからだと思っています。
「あの時熱でフラフラしてたから幻覚でも見たんだ…あれは無かったことにしよう」と…
それはしかし、その渦中に有った時とはまるで違います。
全く疑いの起こり得ない確信の中に有りましたから…
何で又そんな展開になるのかと言えば、全てはこの日常に戻ってきて、なンてこたアない世界を見てるうち、頭打ちにあったはずのエゴが活性化
したのが原因です。
何せ「悟ったゾ!」と有頂天になってしまいましたから…一方であの無力となって降参した事も鮮烈に身に覚えていて、それが歯止めをかけたのでしょう。
後から思えば、それも又摂理です。
未熟な私にはいささか早すぎた祝杯だったようです。
ロック状態が解除し、新たな気付きを受けたのは十数年後のことでした。(台風一過と地殻活動参照)
この間、全く不思議な事に何かもぬけの殻のように、元の木阿弥状態になっていました。
もし、あの体験で受けたことをそのままこの世的な頭での何の脚色もなしに受け入れることが出来たら、おそらくそんな回り道などする必要等無かったでしょう。
人生の表側に戻ってからの心の持ち様というものが如何に重要なものであるか…その体験が身を結ぶかどうかはその事次第です。
私はただぶっ飛んだ体験をしたわけでは無い、聖なる導きの中にあったのです。
トータルな全人生がそのものと共にあるのです。
過去の1ページでなく、今の今も…






コメント
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