人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖霊のバプテスマ

2014-10-18 20:46:42 | 覚醒
以前、ある人から「貴方はクリスチャンですね。」と言われて驚いた事が有ります。
キリストのことも聖書のことも何も話さなかったにも関わらず、です。
おそらく、私が「上よりの力」とか「恩寵」と言った言葉をよく使うので、そのように連想したようです。
私は自分の意志でか、見えざる導師の意図でか〈多分両方〉特定の宗教信者にはならないつもりです。
でも、以前あるキリスト者のグループと接点を持ったのも事実です。
小池辰雄という先生の書き物を読み感銘を受けたのがキッカケです。
原始福音神の幕屋という特異な信仰集団が有ります。
その創始者手島郁郎先生という人が又大変なカリスマでしたが、この原始福音、幕屋ということを初めに提唱されたのが小池先生なの
でした。
この両先生はある時は協調したり、ある時は袂を分かちたりしましたが、ずっと朋友といった間柄のようでした。
共にキリスト教の観念化、形骸化に対し、「生命あふれる聖霊の次元へと回帰せよ!」と叫び続けたのです。
ことに私には小池先生の「私は信仰何てありません!」
信仰なンて言って信じ仰いでたってしょうがない!信交、神交です!」
「キリスト教にあらず、キリスト道だ!」
といった型破りな言葉に共感しました。
そこで強調されているのが聖霊体験です。
聖霊のバプテスマを受ける事とされます。
この事例を多く扱っている古典的参考文献W・ジェイムスの「宗教的経験の諸相」の中で、「生まれ変わった感じ」「世界が輝いて見えた」
といくつか例言が有りますが、これもある種の覚醒体験と考えて良いと思います。
ただ、多くのキリスト者は聖霊による洗礼を受ける以前に、キリスト教教理の洗礼を受けているのが普通で、どこまでが観念的理解でどこからが
実存的、体験的理解か判然としないところが有ります。(小池先生の教えは前記した様にあまりドグマチックでは無いですが)
これがゴッチャになるとどこか狂信的になるところが有ります。
又、あまりに奇跡的、超常的(異言とか)な事に捉われるのも健全ではありません。
小池先生は「十字架と聖霊は切り離せない」としばしば強調されていました。
私には長年理解出来ない事でしたが…
十字架と言ってもキリスト教に縁の無い人間には関係無さそうですが、自我性が砕かれること、私が前に書いた「エゴの頭打ち」と深いつながりが有るようです。
ともかく、「私は何かその聖霊というものを受けると人生が一変してしまうらしい」という事が念頭から離れなくて、その小池先生の集会に飛び込んで行った事が有るのですが、その時別段どうなってしまったという事はありませんでした。
そしてあの真夏の夕暮れを迎えて…
「あれは聖霊のバプテスマなのだろうか?」と考えたりしました。
だが見えざる導師は「我はキリストである」とは名乗りませんでした。
沈黙の声をもってしても…
何より私はその後キリスト者として歩み出したことは無いですし…
導師から開示されたのは、特定の宗教的なものではありませんでした。
それは言うなれば、宗教を超えた普遍的なもの、
神の国です。
いや、待てよ。神の国という事は…
そもそもイエスが言った神の国というのはああいうものなのか…
あれはイエスだったってことか?
確かにイエスしか無かったですけど…
(見えざる導師の項参照)
コメント (2)
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