人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

気付きに遅すぎる事は無い

2016-11-01 00:02:59 | 求道、探究
私はこのブログで平然とこんな心無いような事言ったりします。
”某は何十年も飽きもせず、同じ教えにハマり続け、同じルーティンを繰り返している…”などと…
まあ、生来からの底意地の悪さの表れなんですけど…
読んでいて気に障る方がおられたら只々”ゴメンナサイ”という次第です。
これは実は、私と共に学んだことのある某のことを念頭において言っている部分が多いのです。(この共に学んだ仲というのが運のつき?、因縁なのです)
ある時、その某との生き方の違いが表面化しました。多分私がこのブログを立ち上げたことが起因だったと思います。(実は当初からその事は気付いていたのですが、相手に合わせてナア、ナアにしていた私が悪いのです)
人が何を信じ、どういう生き方をしようと全く勝手な事であり、私は時にその脱線的言説に警鐘を鳴らす、という余計な事をしているのですが、反面その事が私の暗部に照らされることで、とても学ばされることも大きいのです。
この時間に制限された現世にあっては、それに赴く宿縁によって何かを目指しての所謂修行というものも存在しますが、その制限を受けざるを得ません。従ってこの相対的時間の中では遅い、早いという事が有ります。
又、それに応じた各々のメソッド、方法というものも生まれたりします。
私はほとんどなじみが無いのですが、それぞれの縁で、その意義を感じて、その道に従っているということなのでしょう。
そういう相対の世界であるという事を含んでの上で”何十年も同じことを…だんだん神に近づくって、一体いつのことだ…神の国が来ても、やり続けるつもりか!”などと呟いてしまうのです。
私が特別な修行無しに突如、現臨に捉えられてしまう事になってしまったのも何かの宿縁に依っているに過ぎないのですが、あるやり方を伴う修行というものとは違うので、出来るとか、出来ないとか人間的努力に関してとやかく言うのはお門違いというものです。
これはある種気付きと言ってもいいかも知れません。必ず気付きというものが伴っているのです。
気付きにもそうとは”気付かない”微妙なものも”驚天動地”のように感じられるものもあるということですね。
気付こうとしてそうなるので無しに、そういうものが思いを超えて訪れるのです。
そして、気付くことに遅すぎる事は無いのです!
何十年、何百年惰眠をむさぼっていようとも…おバカな事に明け暮れていようとも…死ぬ間際になって気付こうとも…
この世的な時間を超えていることなのです。
気付きというのは、”悟ろうとか、聖者の様になろう”、とか想念が描いている向こうに、描かれたイメージに有るのではありません。
例えばあるバカな事をしていたら、”なんてバカだったのだろう”と気付くことに他なりません。
バカを認める、受け入れるという事です。
つまり、どこまでも正しく、清く、賢く、強くありたいという人は気付けないという事になり易いのです。
小さい気付きを蔑ろにしていると、やがて戦慄の?現臨の愛のハンマーが及ぶかも知れません。
その時は”シビレる”前に逃げた方がいい!?
気付けるか、どうかという事も機縁にも依るのでしょうが、一方的なあちら側のハタラキかけだけでなく、こちら側の意識的(意念的でない)な在り方というものも重要な契機となるものでしょう。もっともそれは、意識が自ずと赴くという事であって、努力という事とは違うものでしょう。
でもあくまでも、何を信じ、何を望み、どう生きようとそれぞれの自由です。この世が終わってしまったら別の話ですが…
何時気付きがやってくるかどうか、という事も分かりません。それが起きた時が、その人にとってのベストタイミングなのかも知れません。
その意味でも起きる事に遅すぎるという事は無いのでしょう…。





コメント
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