「一個の人間になろうと思う人は、世間に迎合しない人間にならなければならない」
「人を羨むことは無知であり、他人の真似は自殺行為だ」
「すべての人に共通の一つの心が有る。万人はその同じ心に通じ、しかもそのすべてに通じる入口である」(R・W・エマソン)
ラルフ・ワルドー・エマソンは19世紀アメリカのルネッサンスの中心に居た文学者、思想家で、我が国のルネッサンスとも言える明治、大正時代にそのロマン主義的香気が時代の求めるものに見合ったのか、大いにもてはやされていたようです。(”静坐”の岡田虎二郎先生も心酔していました)
エマソンというと、どういう訳か、例えば自らの信念によって人生を豊かにするといった、自己啓発、成功哲学関係の教師の元祖のように見られているようですが、実際に読んでみても直接的なつながりなど見出されません。
ただもっと広い意味で、特にアメリカにおける精神的、スピ的潮流に大きな影響をもたらしたことは確かなことでしょう。否、西欧的、東洋的精神、文学、哲学、科学…あらゆる領域を超え、また内包させた道を明らかにした先駆者と言ってもいいでしょう。
私は60年代アメリカ西海岸を中心に興ったスピリチュアル運動にも彼の残したものが基調となっているように感じています。
彼の思想的な文章は”エッセイ集”にまとめられていますが、岩波文庫版「エマーソン論文集」、日本教文社版「精神について」などの翻訳が有ります。(絶版でも容易に見つけられると思います)
その中でも「自己信頼」というエッセイはよく知られていますが、ここで語られていることがただ単に”確固とした自分の考えを持つこと”や、”自立心を養うこと”のように解釈されがちなのですが、(勿論それ自体批判されるべきものでは無いですが…)それは思われたままの自己を信頼するという事でなく、エマソン自身の”内なる光”(多分にエマソンの活動の拠点の米国北東部で盛んだったクエーカーからインスパイアされています)を見出した体験から導き出されたものであることは忘れてはなりません。
これには眩いばかりのある種の霊感的なものもハタライたことでしょう。
それは自己を超えたものへの全き信頼ともいえるかも知れません。だが、それは断じて自己から切り離されたものであろうはずは無い!です。
思われたままの自己はより深く、普遍性を帯びたものとして現前され、そこから自ずと湧き上がる信頼に違いないでしょう。
自己の深化と結びつかない霊感的なものへの迎合とは雲泥の差です。まして自分のでない側近の霊感に依存してしまうお隣の治世者ときたら…
エマソンの人間精神、に関する観方には、内在性と超越性というものが如何に重なり合っているか、ということを如実に言い表わされています。
言葉にすると抽象的になってしまいそうですが、これは一枚になって(一つに溶けたものではありません)目の当たりになっているのですが、この世では言い表す術が無いとキテます。
超越性という魂の側面について彼は、別のエッセイでオーヴァーソウル~大霊、超個的魂という表現で説明しています。「それは各人の個々の存在が包含され、すべての他と一体にされている統一」であり、そこで人は「昔、プラトンが考えたように自分も感じられる…」と言う。
時間と空間を超えた普遍世界であり、一に溶解してしまうものでも、多様にバラバラになるでも無い、全一的有り様というものを伝えているのです。
私が初めてエマソンに触れたのは、昭和58年初秋の頃だったと思います(エマソン選集・精神について)。ということは初めて人生の裏側を垣間見た直後の事ということになります。
今から考えると、この事は自分の経験したことを学ばされる絶好の機会を与えられていたのだ、と思うと身が震えそうになります。(何故か突如思い出しました)
でも、その時はすっかりその事は元の木阿弥になった(と、感じた)後のことで、(しかけたことはあったものの)再び再燃することは無かったのです。”また一人偉大な先人に出会えた”という印象しかありませんでした。
自己過信に陥るのを恐れていた訳でもないでしょうが、本当の意味での自己信頼に欠けていたと思わざるを得ません。一個の自己のみじゃない、全てとつながった自己への信頼…。
ともあれこの大きく変わりゆく時代にあって、表相に流れることなく、どこまでも真の自己でありたい、と感じています…。
「人を羨むことは無知であり、他人の真似は自殺行為だ」
「すべての人に共通の一つの心が有る。万人はその同じ心に通じ、しかもそのすべてに通じる入口である」(R・W・エマソン)
ラルフ・ワルドー・エマソンは19世紀アメリカのルネッサンスの中心に居た文学者、思想家で、我が国のルネッサンスとも言える明治、大正時代にそのロマン主義的香気が時代の求めるものに見合ったのか、大いにもてはやされていたようです。(”静坐”の岡田虎二郎先生も心酔していました)
エマソンというと、どういう訳か、例えば自らの信念によって人生を豊かにするといった、自己啓発、成功哲学関係の教師の元祖のように見られているようですが、実際に読んでみても直接的なつながりなど見出されません。
ただもっと広い意味で、特にアメリカにおける精神的、スピ的潮流に大きな影響をもたらしたことは確かなことでしょう。否、西欧的、東洋的精神、文学、哲学、科学…あらゆる領域を超え、また内包させた道を明らかにした先駆者と言ってもいいでしょう。
私は60年代アメリカ西海岸を中心に興ったスピリチュアル運動にも彼の残したものが基調となっているように感じています。
彼の思想的な文章は”エッセイ集”にまとめられていますが、岩波文庫版「エマーソン論文集」、日本教文社版「精神について」などの翻訳が有ります。(絶版でも容易に見つけられると思います)
その中でも「自己信頼」というエッセイはよく知られていますが、ここで語られていることがただ単に”確固とした自分の考えを持つこと”や、”自立心を養うこと”のように解釈されがちなのですが、(勿論それ自体批判されるべきものでは無いですが…)それは思われたままの自己を信頼するという事でなく、エマソン自身の”内なる光”(多分にエマソンの活動の拠点の米国北東部で盛んだったクエーカーからインスパイアされています)を見出した体験から導き出されたものであることは忘れてはなりません。
これには眩いばかりのある種の霊感的なものもハタライたことでしょう。
それは自己を超えたものへの全き信頼ともいえるかも知れません。だが、それは断じて自己から切り離されたものであろうはずは無い!です。
思われたままの自己はより深く、普遍性を帯びたものとして現前され、そこから自ずと湧き上がる信頼に違いないでしょう。
自己の深化と結びつかない霊感的なものへの迎合とは雲泥の差です。まして自分のでない側近の霊感に依存してしまうお隣の治世者ときたら…
エマソンの人間精神、に関する観方には、内在性と超越性というものが如何に重なり合っているか、ということを如実に言い表わされています。
言葉にすると抽象的になってしまいそうですが、これは一枚になって(一つに溶けたものではありません)目の当たりになっているのですが、この世では言い表す術が無いとキテます。
超越性という魂の側面について彼は、別のエッセイでオーヴァーソウル~大霊、超個的魂という表現で説明しています。「それは各人の個々の存在が包含され、すべての他と一体にされている統一」であり、そこで人は「昔、プラトンが考えたように自分も感じられる…」と言う。
時間と空間を超えた普遍世界であり、一に溶解してしまうものでも、多様にバラバラになるでも無い、全一的有り様というものを伝えているのです。
私が初めてエマソンに触れたのは、昭和58年初秋の頃だったと思います(エマソン選集・精神について)。ということは初めて人生の裏側を垣間見た直後の事ということになります。
今から考えると、この事は自分の経験したことを学ばされる絶好の機会を与えられていたのだ、と思うと身が震えそうになります。(何故か突如思い出しました)
でも、その時はすっかりその事は元の木阿弥になった(と、感じた)後のことで、(しかけたことはあったものの)再び再燃することは無かったのです。”また一人偉大な先人に出会えた”という印象しかありませんでした。
自己過信に陥るのを恐れていた訳でもないでしょうが、本当の意味での自己信頼に欠けていたと思わざるを得ません。一個の自己のみじゃない、全てとつながった自己への信頼…。
ともあれこの大きく変わりゆく時代にあって、表相に流れることなく、どこまでも真の自己でありたい、と感じています…。