人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

静坐法と礼拝

2016-11-03 13:03:14 | 祈りと瞑想
「真に無為の国に静坐することが出来れば、天地の春は心の内に漲り、人生の力も人生の悦楽も身内から生じてくる…」
「修養の後にゼロの境地に至るのでなく、今こうして坐っているのが、直にゼロの境地だ」
(岡田虎二郎)

明治、大正という我が国で宗教、思想初め精神的な潮流が一度に花開いた時期(”スピリツアル”なる表現もこのころ生まれた)、一世を風靡していた健康法、修養(この時期、この言葉が流行っていた)法に岡田式静坐法というのが有りました。
その創始者岡田虎二郎という人も各界から聖者のように慕われていましたが、往時、その門をくぐったものは真に多士多才…岸本能武太(宗教学者)木下尚江、田中正造(共に社会思想家)中里介山、佐保田鶴治(ヨガ指導者)…その名を拝するだけでこの時期の精神世界のある脈筋みたいなものが浮かび上がるほどです。(岡田先生亡き後には玉城康四郎先生も関係していました…)
”人に教えてはならない”という指導方針に反して爆発的に広がったのは、”難病が癒えた”などの無数の奇跡談、それを含めこの行法を紹介した本がベストセラーになったためでしょう。
大正九年岡田先生の急逝(急病によるため、健康法としての評判は著しく下がったようです)により、あっという間にブームは去ってしまいましたが、その後も根強い支持もあり、地道に活動を続けているようです。
私は専門の道場でなく、心得のある人から形だけ教わった事が有るのですが、例えば背筋をまっすぐにするとか、みぞおちを落とすとか(胃下垂にならないの?〉、独特の正坐法とか呼吸法とか…結構細かいメソッドが決められていて、正直”面倒くさい”と思いました。そして数十分間のことでしたが足がシビレました…
しか―し…往時のこの行法には、静に坐ってシビレと戦っているどころでない面も見られたようです。
ある人は言いました。”これは静坐というより動坐だ…”と。…この行法の評判になったもう一つの事由は、静坐中にしばしば起こる振動~体が勝手に揺れ、動き出すこと~にあったようなのです。
勿論それは行の副産物として起こる現象で、それを目的にしていた訳では無いですが、大衆の好奇心からか瞬く間に評判になったようです。”ばたばた”、”床が抜けるかと思った…”と言う証言もありますから、ラティハン(インドネシア伝来の一種の霊動法)か野口整体の活現運動を想起させるじゃありませんか?…足のシビレから全身のシビレ?(痛く無いです!)に移行してしまうのはにわかに信じがたい気がするのですが…
注目すべきは、岡田先生はこの静坐法を始める前、米国でキリスト教の一派、クエーカーと出会っているのです。クエーカーはその礼拝時、震えだす人が現れるところからの呼称ですが、先生が参加した、そのある会堂で大振動が起きた、という話も伝わっていますが、ホントかどうかわかりません。ただ先生は本物の”震える人”と出会っている可能性は高いと思います。そして…
「私は禅よりもむしろクエーカーに学ぶことの方が多い」
「クエーカーの瞑想(礼拝)はほとんど静坐と同じです」
と、述べているようにクエーカーから触発されている面がかなり大きいと思われます。
とは言え、クエーカーの礼拝には、静坐法のような細かい”やり方”などありません。というより、それを瞑想と呼ぶなら、良いにつけ、悪いにつけ、あんなイイカゲンな瞑想は無い、と言っていいくらいです。あくまで形の上のことですが”大分違うがなあ”、というのが私の感想です。
しかしながら「静坐ほど他力的なものは無い」とも述べているように、先生の残された言葉の数々から、静坐を自力修行というよりも、祈りに通じる心持を重視していたであろうことは伝わってきます。
静坐即礼拝という赴きが感じられます。
それも岡田先生亡き後には、この振動も見られなくなったようで、先生が見えざるハタラキ、エネルギーの媒体となっていたことも十分考えられることです。
これはその媒体を通して、あくまで自ずと各人の内なる力が顕わになるのが肝心な事で、岡田先生の指導方針もそこに重点が置かれていたと感じますが、稀代の聖者、カリスマのように観られていた面も否めません。これが明治、大正時代の時代相ということなのでしょう。










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