人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

明日は明日の風が吹く

2016-11-26 12:34:17 | 雑感
この一週間というもの、都心の最高気温20度の日もあれば、観測史上初の積雪となった日もあり、もう体も頭もバカになってしまいそうです。
とにかく寒暖の差が年々激しくなってきているのは確かですね。
風向きというものも毎日、刻々と変わってしまうという感じです。
こんな環境の中である種の行をしている人たちにとり、セルフ・コントロールとか不動心を養うとか、自己練磨に勤しむのはさぞや大変な事だと思います。
私は人生の中でほとんど修行というものに関わったことがありません…ということはこうした男気のある?生き方とは程遠いものだったと言わざるを得ません。
イヤなものはイヤだし、ツライものはツライし、キライなものはどうしたってスキにはなれないし…そりゃあ、”こんな自分を甘やかしてばかりじゃダメなんだ…”と誰かに言われているような気がして、何とか心がけを変えようとしたりもした事が有りましたが、”そうならないものはならない”のです!
いたずらにそうならない自分への嫌悪感をつのらせるばかりなのです。
あるべき自分とそうならない自分とが分離作用を起こしそうです。
そこへいくと甘口?のスピ系などでは、”変わらなくてもいいんだよ~、そのままでもいいんだよ~”と助太刀してくれるみたいですが…
だけどねえ…
”変わる時は変わる!…そん時はそのままでいられる訳が無ーい!”
私はいつの間にか、こういう有り様というものに心身を(習うことなくして)、習わされてきたのです。
だからツライ、イヤなこともあろうが、ずっとそうじゃない…自分の心持も勝手に変わるもの…という意識が芽生えたのです。
つまり…”なろうとしなくたって、なってしまうんだからしょうがないじゃないの!”ということです。
これは何度も触れている、意識を勤めて何かに集中しようとしなくても勝手に向いてしまう、祈ろうとしなくても、自然に手が合わさって、祈らざるを得なくなってしまう…こうした自然(じねん)的ハタラキに預かる、ということの関連で言っている訳ですが、これは”風は吹く時には吹く、明日は明日の風が吹く”と、しばしばプネウマ(霊的なもの)のハタラキは風のそれに喩えられてきたのでした。
それにしても…ここ最近は、喩えじゃなくてホントに”風向きが変わると心境も変わるわい…”という事を如実に実感させられています。
”聞いたことない11月の雪…凍てつくような寒さ…何で仕事なんだよ!…もう、ダメ!手が…足が…寒痛い、チクショー、何て僕の人生は呪われているんだ…”全く克己的じゃない私はネガティブ・オーラ全開です。不動心?…不屈の闘志?…ヤセ我慢したい人はご勝手に…空いばりの闘志なぞ、”とうし”しちまったら元もコも無い!
でも私は知ってます…こんなんは三日も続くわけが無いのです。必ず追い風はやってくるのです。
その時は放っといても閉じた毛穴は開き、祝福された人生を味わうのみです。
このように私は昔から気兆しというものに触れようとする習性があるようなのですが、それは空や雲の動き、とりわけ夕日を見るのが好きだったことと無関係ではないでしょう。
そんなの”全然、主体性ってもんが無いじゃありませんか!”と言われそうですが、チッポケな自分だけからはそういうものは出て来ません。
そして”上より”の追い風に後押しされている時こそは、間違いなくこの人生の主となっているのです。
そうなると受け入れるも何も受け入れざるを得なくなります。
勿論、それは地上の風とは無関係に吹くものです。逆風であろうと、何時もそうなっていることに越したことはないです。
(そうならないのがこのロクでも無いシャバというものではありますが)
要するにいつも無理無く、障りなく、分裂なくということですね…(そうあろうと躍起になると途端に分裂しますよ!)
こうなると、逆説的ですが、いかにもシンドそうな克己的生き方も何だか楽しくなってきそうです。
この時節は否応なしに自己を超えたものに意識が向けられてしまうようです。ニッチもサッチも行かない方は、風を味方にも出来るかもしれません。
それは、なそうとしなくても、なってしまうようになる、ということです。

それにしても、本格的な冬を前にして、この隙間風はなんとかならないものだろうか…

コメント (2)
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