「私が若かった頃、伝統的に尊いとされる教会の教義を振りかざして、私を悩ませていた立派な人につい、こう言ってしまったことがある。
”私が完全に自分の内面に従っていれば、伝統とされる神聖など、私に何の関わりが有るでしょう”
すると、その人は言った。
”しかしあなたのそうした衝動は、上から来るものでなくて、下から来るものかもしれないですね…”
私は答えた。
”私にはそうは思いません。しかしともかく、もしも私が悪魔の子なら悪魔の子として生きるまでです”」(R・W・エマソン)
なまじっか宗教とかスピなどに関わると、余計な知識を背負いこんで、先入観に捉われてしまい、本来精神が自由でなければならないはずのものが、かえって不自由をかこつハメになってしまうものです。
その中に、サタンとか悪霊とか憑依霊など自分が見た訳でも、感じた訳でも無いのに信じ込んでしまう向きが有ります。
守護霊とか聖霊とか所謂高級霊よりも熱心に信じてたりします。
墓場とか病院などにはそういうのがウヨウヨとか…こういう人というのは、”ジンジン”とした感じよりも、”ザワザワ”とした感じに馴染んでいるらしいです。
悩み多き普通の人よりも、トラワレを背負いこんでいるのに、当人は特定の教えで約束されていることを信じているのか、救われたつもりになっているようです。ま、どう信じようと、どう感じようと人それぞれですが、私はあらゆるトラワレから自由にならないと、”救われた”とは思えてきません。
ここで所謂”悪い霊”について私の感じていることによると、これは人間の思念に付きもの、”憑き物”である…思念と共にあり、思念がその素材?になっている、というように思われてくるのです。
思念が凝って、それが我々の有機体から独立して、あたかも霊的生き物のように感じられる、VR的なあるもの(この理由でそれは現実に存在するのか、生命体なのかどうかは決めかねるものです)のことでしょう。従ってそれらの住む世界?であり、同じようにある種の信仰者が勝手に空想して捉われている地獄というものも思念から生まれたものだ、と言えるでしょう。
こういう信仰に捉われている人は、中々上よりの力に捉われてしまう事がありません。
大体、上よりの力とか見えざる導師というものが、得体の知れないモノに思えて信頼出来ないでしょう。それとも自分のような悪い、罪な人間(内心こう思っている人が多い)に高級霊などがかかるハズ無いと思いますか?
自分を信じなければ本当は何も信じられなくなるのです。
他所から何かの霊がかかってくるという事自体が捉われた固定観念なので、私はそういう人にはこの種の話はあまりしないようにしているのですが、まずは迷いの霊よりも守護の神霊、ガイダンスと親しむことが先決なのです!…こっちは一概に思念から云々、という事は言えず、自ずと思念を超えたものに意識が向かうものだと思います。
どちらにせよ、”引き寄せの法則”に照らせば、自分にあるものが寄ってくるのだから、結局自分の在り方、心の持ち方の問題ってことになりませんか? その方が有るのかどうか分からないものに捉われるよりもずっと自由になりはしませんか?
諸々のトラワレから自由でなければ、恩寵の契機は開かれません。
又、それが臨んだ時、本当の自由を実感することが出来ます。それは上への、自己への信頼から生まれるのです。
そうでなければ、いつまでも”善霊か悪霊か、高級か低級か、信じなければならない信仰か自由への飛翔か…このまま迷い続けるか迷いを超えたハタラキに全託するか…精々気が済むまで(なるべく下を見ずに天を仰いで)思案されたらいいです…そのうち世界が終わってしまうかもしれませんが…
どうせ生きてても浮世は迷いばかりです。思いっきり迷いに飛び込むまでです。”地獄も一定住処で可なり”、”ドエライ悪魔との心中も可なり”ということです。もはや迷いは無い!…
”私が完全に自分の内面に従っていれば、伝統とされる神聖など、私に何の関わりが有るでしょう”
すると、その人は言った。
”しかしあなたのそうした衝動は、上から来るものでなくて、下から来るものかもしれないですね…”
私は答えた。
”私にはそうは思いません。しかしともかく、もしも私が悪魔の子なら悪魔の子として生きるまでです”」(R・W・エマソン)
なまじっか宗教とかスピなどに関わると、余計な知識を背負いこんで、先入観に捉われてしまい、本来精神が自由でなければならないはずのものが、かえって不自由をかこつハメになってしまうものです。
その中に、サタンとか悪霊とか憑依霊など自分が見た訳でも、感じた訳でも無いのに信じ込んでしまう向きが有ります。
守護霊とか聖霊とか所謂高級霊よりも熱心に信じてたりします。
墓場とか病院などにはそういうのがウヨウヨとか…こういう人というのは、”ジンジン”とした感じよりも、”ザワザワ”とした感じに馴染んでいるらしいです。
悩み多き普通の人よりも、トラワレを背負いこんでいるのに、当人は特定の教えで約束されていることを信じているのか、救われたつもりになっているようです。ま、どう信じようと、どう感じようと人それぞれですが、私はあらゆるトラワレから自由にならないと、”救われた”とは思えてきません。
ここで所謂”悪い霊”について私の感じていることによると、これは人間の思念に付きもの、”憑き物”である…思念と共にあり、思念がその素材?になっている、というように思われてくるのです。
思念が凝って、それが我々の有機体から独立して、あたかも霊的生き物のように感じられる、VR的なあるもの(この理由でそれは現実に存在するのか、生命体なのかどうかは決めかねるものです)のことでしょう。従ってそれらの住む世界?であり、同じようにある種の信仰者が勝手に空想して捉われている地獄というものも思念から生まれたものだ、と言えるでしょう。
こういう信仰に捉われている人は、中々上よりの力に捉われてしまう事がありません。
大体、上よりの力とか見えざる導師というものが、得体の知れないモノに思えて信頼出来ないでしょう。それとも自分のような悪い、罪な人間(内心こう思っている人が多い)に高級霊などがかかるハズ無いと思いますか?
自分を信じなければ本当は何も信じられなくなるのです。
他所から何かの霊がかかってくるという事自体が捉われた固定観念なので、私はそういう人にはこの種の話はあまりしないようにしているのですが、まずは迷いの霊よりも守護の神霊、ガイダンスと親しむことが先決なのです!…こっちは一概に思念から云々、という事は言えず、自ずと思念を超えたものに意識が向かうものだと思います。
どちらにせよ、”引き寄せの法則”に照らせば、自分にあるものが寄ってくるのだから、結局自分の在り方、心の持ち方の問題ってことになりませんか? その方が有るのかどうか分からないものに捉われるよりもずっと自由になりはしませんか?
諸々のトラワレから自由でなければ、恩寵の契機は開かれません。
又、それが臨んだ時、本当の自由を実感することが出来ます。それは上への、自己への信頼から生まれるのです。
そうでなければ、いつまでも”善霊か悪霊か、高級か低級か、信じなければならない信仰か自由への飛翔か…このまま迷い続けるか迷いを超えたハタラキに全託するか…精々気が済むまで(なるべく下を見ずに天を仰いで)思案されたらいいです…そのうち世界が終わってしまうかもしれませんが…
どうせ生きてても浮世は迷いばかりです。思いっきり迷いに飛び込むまでです。”地獄も一定住処で可なり”、”ドエライ悪魔との心中も可なり”ということです。もはや迷いは無い!…