阿部敏郎さんの過去記事を読みたいと思ったのは、故.エンライトさんの遺稿をブログでリリースされ続けている、その実妹さんの美雨さんの最近の記事に触発されたものですが、そこでの阿部さんに対する検証内容とは別に、私自身が感じたことを書いているまでです。念のため。
14年の夏、阿倍さんとエンライトさんのお弟子さんでもあった、やはり故人になられた、さくらさんこと光速かんながらさんとの間で起きた論争は、阿部さんが"死んで迷っている霊(生きてる人でも迷っていたら一緒だと思われますが)でも、誰でも死んだら光の世界へ行ける"、と決めつけたことを述べたことから、かんながらさんが反論したものでした。
阿部さんは、それを弁証するような記事でも「あなたは最初から救われています。死んだら全員が大いなる源(本当の自分、光の世界)へ帰ります。だから安心して下さい。これは気休めでなく、事実です」と結んでおりました。
えーっと...何で一個人(安心して下さい。そう言っている人が居るのですi)に過ぎないのに、すべての人類のことが分かってしまうのでしょう。
事実なのだそうですが、実証された訳(件のことは実証される訳が無い)でも無いのに何で唐突にそういうことになってしまうのでしょうか?
本当に救われているのか、どうかはその迷っている人なり、魂なりに当たって見なけりゃ何とも言えないでしょう。
ひっきょう"救われ"とは、当人が本当に"救われている!"と感じているか、どうかということではないでしょうか?
ここでは死後の世界、霊界、幽界などと言われている世界については触れません。
単純に私には、そういう方面を知覚する能力を与えられておらず、あまり直接縁が無く分からないのです。(ついでながらそういう私でも、いつも霊的ーこれは言葉の本来の意味でスピリチュアルなことですーなことを書いていると自認してますが、死後の世界とか霊魂のこととかは、上記の理由からほとんど書いていません。私はそれらのことを"心霊的なこと"と言って区別しているのです)
改めて考えても見えない世界(心霊的な意味ばかりでなく)に関することは分からないことだらけなのです。何で短絡的に決めつけることが出来るのでしょうか?
第一、自分以外の他人、その他大勢、"ん、何?全人類!"のことなど、何で知ったようなことを言わなければならないのでしょうか?
あなたはそういう定見を聞かされただけで、それに迎合して安心しちゃうのですか?
どうか、誤魔化さないで、あなた自身に聞いてみて下さい。
すると...あなた自身の神が答えてくれる...かもしれない。
私自身は"たとえ、上部の私がどんなに迷っていても、苦難に陥っていたとしても、私は根底において救われている!"と実感したことがあります。
そこには如何なる迷いも苦しみも持ち込むことは出来なかったのです。如何なる思いも超えられていたから...
ただ愛、平安というものはあります。それは実に思いを超えて原初的にあるものだから...
だからと言って、このことはすべての人に当てはまると私が述べてしまうのは、全く僭越なことと言う他ありません。
このようなことを実感したのは、実に私に現臨が訪れ、神的なものと共にあったからです。
安部さんがあのように述べていたことも、おそらくこうしたものに与った実体験からだったと思います。
誰でもが、根底において神的なものとつながっているとは私も感じているとはいえ、すべての人がそういうことに導かれるのか、どうかは結局は分からないのです。人間には、この本源的なものへの回帰を望まない自由というものもありますしね。
しかし、その本源の方から我々に現れようとする意志みたいなものを、先の時にも、今もずっと感じていますが...
それでも、思いを超えたもののこととて、その有り様のことはやはり分からないのです。
事実はどうなのかは知らないけど、すべての人が救われればという願いはありますが、考えも、行いも及ばないことは、結局はどうでもいいことなんでしょう。
「世界や人類のことは神が面倒みることだろう」(ラマナ.マハルシ)
14年の夏、阿倍さんとエンライトさんのお弟子さんでもあった、やはり故人になられた、さくらさんこと光速かんながらさんとの間で起きた論争は、阿部さんが"死んで迷っている霊(生きてる人でも迷っていたら一緒だと思われますが)でも、誰でも死んだら光の世界へ行ける"、と決めつけたことを述べたことから、かんながらさんが反論したものでした。
阿部さんは、それを弁証するような記事でも「あなたは最初から救われています。死んだら全員が大いなる源(本当の自分、光の世界)へ帰ります。だから安心して下さい。これは気休めでなく、事実です」と結んでおりました。
えーっと...何で一個人(安心して下さい。そう言っている人が居るのですi)に過ぎないのに、すべての人類のことが分かってしまうのでしょう。
事実なのだそうですが、実証された訳(件のことは実証される訳が無い)でも無いのに何で唐突にそういうことになってしまうのでしょうか?
本当に救われているのか、どうかはその迷っている人なり、魂なりに当たって見なけりゃ何とも言えないでしょう。
ひっきょう"救われ"とは、当人が本当に"救われている!"と感じているか、どうかということではないでしょうか?
ここでは死後の世界、霊界、幽界などと言われている世界については触れません。
単純に私には、そういう方面を知覚する能力を与えられておらず、あまり直接縁が無く分からないのです。(ついでながらそういう私でも、いつも霊的ーこれは言葉の本来の意味でスピリチュアルなことですーなことを書いていると自認してますが、死後の世界とか霊魂のこととかは、上記の理由からほとんど書いていません。私はそれらのことを"心霊的なこと"と言って区別しているのです)
改めて考えても見えない世界(心霊的な意味ばかりでなく)に関することは分からないことだらけなのです。何で短絡的に決めつけることが出来るのでしょうか?
第一、自分以外の他人、その他大勢、"ん、何?全人類!"のことなど、何で知ったようなことを言わなければならないのでしょうか?
あなたはそういう定見を聞かされただけで、それに迎合して安心しちゃうのですか?
どうか、誤魔化さないで、あなた自身に聞いてみて下さい。
すると...あなた自身の神が答えてくれる...かもしれない。
私自身は"たとえ、上部の私がどんなに迷っていても、苦難に陥っていたとしても、私は根底において救われている!"と実感したことがあります。
そこには如何なる迷いも苦しみも持ち込むことは出来なかったのです。如何なる思いも超えられていたから...
ただ愛、平安というものはあります。それは実に思いを超えて原初的にあるものだから...
だからと言って、このことはすべての人に当てはまると私が述べてしまうのは、全く僭越なことと言う他ありません。
このようなことを実感したのは、実に私に現臨が訪れ、神的なものと共にあったからです。
安部さんがあのように述べていたことも、おそらくこうしたものに与った実体験からだったと思います。
誰でもが、根底において神的なものとつながっているとは私も感じているとはいえ、すべての人がそういうことに導かれるのか、どうかは結局は分からないのです。人間には、この本源的なものへの回帰を望まない自由というものもありますしね。
しかし、その本源の方から我々に現れようとする意志みたいなものを、先の時にも、今もずっと感じていますが...
それでも、思いを超えたもののこととて、その有り様のことはやはり分からないのです。
事実はどうなのかは知らないけど、すべての人が救われればという願いはありますが、考えも、行いも及ばないことは、結局はどうでもいいことなんでしょう。
「世界や人類のことは神が面倒みることだろう」(ラマナ.マハルシ)