人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

聖霊

2019-02-26 12:26:08 | スピリチュアル
聖霊...

おかしな言い方ですが、私にはこの言葉を思い浮かべるだけで、言葉を超えたものが伝わってきます。
聖なる霊...これに与ることは聖なるものと共にあるということです。
聖霊とは私にとりスピリチュアリティの代名詞です。
あれもスピ、これもスピ...いっしょくた...
いいや、ことはスピリチュアリティ、霊性のことなのであるi
聖霊無くして何処にスピリチュアルなものなど見い出せようか...
神とは何ぞや、真理とは、霊とは...これこれについていくら考え、挙げつらっていてもちっとも霊性のことは分からず、伝わりません。
聖霊あるところ思いは超えられている...不毛な議論はやむしかありません。
聖霊は多くキリスト教世界で言い伝えられてきたのは確かなことです。
悪霊、背後霊、因縁霊...
聖霊は雑多な、諸々の霊の消息とは直接関係ありません。
それは、諸々の思念に由来する霊の事態とは異なるもの...思念を超えてハタラクものだから...
キリスト教は、聖霊をそうしたものと区別し、純粋にその思念を超えた霊なるハタラキを伝えてきたと言えます。
しかし、それはそういう決められた領域だけにハタラクものではありません。
キリスト教の"キ"の字も知らず、聖書を読んだことが無くとも、その恩恵は臨みます。
何教だとか、すべての相対次元を超えているものだから...
思われた自分を変えようと、様々な教えを信じ、行法に取り組んだりします。
しかし、いくら続けても中々シックリこない、信じきれない、上手くいかない...
"こうしなければ"...それでも無理にそれに合わそうと、いつまでも戦いは終わらない...
聖霊が臨む時、信じるも何も無い、行も何も無い...
いつの間にか、かく思われた自分は変えられてしまったではないかi
この行き先の見えない、ガンジガラメの相対地獄にあって、元より超えられたものに会わずして我々はどうにもならないではありませんか?
故にキリスト教では聖霊を"助け主"と呼んできたのです。
本当に苦しい時、シンドイ時、危急存亡の時、洋の東西を問わず人は、"オーマイガッi"、"助けて下さいi"となるではありませんか?
聖霊とは、神、現臨、ガイダンスなどの別名なのです。
"自分の力だけで何とかなる教"の人は、多分ホントの苦難の味を知らない幸福な人なのかもしれません。
しかし、これほど不幸な人も居ないとも言えるでしょう。自分の力、思いを超えたところにホントの幸福があるのですから...
自分の限界を思い知らされた人間に聖霊への望みが開かれるでしょう。
聖霊を切に望む人間には、聖霊の方がほっとかないでしょう。
聖霊の方が我々をつなげようとしている...聖霊の方が我々を求めているのですから...
コメント
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