人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

優しい日光に照らされながら

2019-02-13 03:59:17 | 意識、照明
このところ一寸考えることがあって、こないだ内省というか、フツーに自分自身のことに向き合おうとしてみました。
これを修行的な人はもっと意志的に、自己観察とかヴィパッサナー瞑想と言われているような行に取り組むのでしょう。
しかし、私の場合決まって意志的にそうやろうとすると、自ずとその意志的、随意的ハタラキにストップがかかってしまいます。
あまりその事を意識したことは無かったのですが、明らかにストップがかかるのです。
そして何だか心身共に拡がり、弛緩したような感じになり、内省しよう、自分を観察しようとする意志的なハタラキが、自ずと自己を超えて観照するものに明け渡されるのです。
私はそれを仮に"照明"と言っている訳ですが、実にこのものが立ち上がってくる時、そういうことが起こるのです。
そこで何をするのか? 為すべきことは何もありません。
ただ僅かな意識的な動きがあります。この意識的なことは意志的なものと区別して言っているのです。
それは意志的に、人為的に"動かす"ことに先立つ、無為的に"動く"感じのものですが、それでも"神の手がかかる"ような、為す術が全く無くなる事態というものよりも、大分ユルい感じのもので、全く受動的になってしまう訳でもありません。
ただ、それについて観察したり、考えたりすることは難しいです。受け入れる、ゆだねるだけ...ただ感じることは出来ます。
"じんじん"と...
そしてある気になっていることがあると、そこに光が当たるように感じます。これが意識的な動きに関わることですね。
そこでどうこうすることがある訳でなく、光が当たるということが肝心なことなのです。
それにより、あるインスピレーションみたいなものが与えられることもありますが、ずっとその"お照らし"を受けているだけでもいいのです。
それは、愛、平安に包まれることだから...それ自体が癒しともなり、自分自身を取り戻すという感じに導かれます。
私はこういう事をずっと昔から身に覚えていたのですが、意識的に自覚するようになったのは、15年秋、自己観察、自己観照を重視しているエンライトさんのブログを読んだことがきっかけで、優しい日光の照らしに浸っている中、気付かされたのでした。
エンライトさんの記事には、"純粋観照"といった表現で、ハッキリとこの無為的な観照のことを伝えています。
これは実に見えない導きであり、現臨が臨むことであり、思いを超えることであり、神と共にあることとつながることなのです。
このことで先ず何が示されるかと言えば、"自分が生きている、ということより先に"生かされている"ということ...そして"生かされている私はここに居る"ということです。
この事は本当にあの40年前、私が意識が遠退き、精神錯乱に陥りそうになった時、そのものが臨み、小春日和のやはり優しい日の照らしに浸っているうち、その"お照らし"を受けることで実感されたことだったのです。
これは、もっとシンプルに太陽の光の恩恵を思い浮かべ、それを自分自身のこととして、自分の内に深めてみれば、自ずと示され、頷かされてこないでしょうか?
そうして祈り心地でいたら、いつのまにかこの見えざる日照が芽生えてくる...かもしれません。
コメント
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