人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

即天即魔

2019-02-05 12:00:39 | 雑感
"暖かい南風から厳しい北風に切り替わったら幸福は翔んで行ってしまうだろうか?"
...なんてことをウカツに書くもんじゃない...
昨夕の帰り道、突然それまでの季節外れの暖かい風が冷たい北風になった頃、用事を思い出し、一寸ばかし原付バイクを大通りの歩道に停めて戻ってみたら...駐禁のシールを貼られてしもうたi
"わ~ん、どうしたらいいんだよう~、財政ピンチだというのにい~、もう今月の不幸確定i...あの緑の爬虫類人種めi どうせ違反金は○暴関係の資金源になるんだろi 元刑事がそう言ってたんだから間違いないi "公共の正義のため"みたいな顔して、やってることは偽善じゃないかi 邪魔にならないように、ほんの20分ばかし停めてて何が悪いi...
何だか故.西城秀樹さんの歌のリフレインが聞こえてきそうだ..."ブーメラン、ブーメラン"

天候のことを始め、とても物事の移り変わりが激しいです。
私の気分も風向き次第みたいなところがありまして、とても悟った人のように不動心で居られるようには行きませぬ。
これは物事の変転サイクルがとても早くなってきた、ということを物語っているようです。
(私がいつも言っている"意識を向ければパッと..."ということもこの辺りの消息を伝えているのかも分かりません)
SNSでも、指一つで観たいもの、知りたいものにつながることが出来ます。
これはヴァーチャル世界のことにすぎませんが、それはそこに隠れた実相を映し出しているとは言えまいか?
スピ界隈でも言われているように、我々は直ぐになりたい自分になれる時代を向かえているのかも分かりません。
しかし..このことは明るく、ハッピー、ノーテンキなことばかりを見させてくれる、という意味にはならないでしょう。
我々はそう望めば、これといった努力無しでも、即真我、神的なものとつながることが出来るかもしれない。
だが、その一方我々は直ぐに真我に目覚めるどころか、自分が自分で無くなってしまう、得たいの知れない化け物になってしまうか、身も心もそれらの容れ物になってしまうような、オソロシイ時代を向かえているとも言えるのではないでしょうか?
つまりは、今、即天にもなれれば即魔ともなり得るということです。
そこで何が神的なもので、何が魔的なものかが問題になります。ひっきょうそれは善悪の問題にもなってくるでしょう。
そんな時と所で変わってしまうようなもの、よお分かりませんでしょう?
結局、正しい神とか、悪魔とか、正統とか異端とか言うのは、人が世の中がそう言っているだけじゃないですか?
だから神も魔も、善も悪もないのですi...って、本当にあなたはそれで済むのですか?
あなたは本当にあなたの気持ちからそれをし、やらされているのですか?
他人事にしてないで、あなた自身に聞いてみたらいいのです。
善悪とか、正義とか倫理とかの論議には、もっとも肝心なことが蔑ろにされているようです。
それは、善とか悪とか言われているものの狭間にあって、そこに自分が本当に愛、平安、リアリティというものを感じているのか、どうか...
"感じなんかでは話にならない"のかもしれませんが、現実にそういうものが我々にハタラキ、それを感じることで自ずからなるある種の抑制がなければ、ただその場で巻き起こる集合的無意識からくる思いの成るまま、為されるままになるしか無いでしょう。
自分の本心という回路、あのすべてを見透す照明を通ることが無いのです。これは"良心"というしばしば倫理観念と結び付くものに似ているけれど、もっと我々の内奥に根底的にあるものです。
要するに、事の良し悪しを根本的に律しているのは、他律的な法律、モラルではなく、自ずから赴こうとする"法なき法"にあると言えるのではないでしょうか?
それは集合的無意識を外側から律し、罰する法的なものにあらず、我々一人一人に元から与えられている天律ともいうべきものです。
この意味で、自分が自分で無くなってしまえば、それは生きてこないと言えるでしょう。

倫理モラル低下の声はますます強まっています。否、それはもう破綻しているようにも思える。"くそくらえ!"ではないかi
自分を自分と感じられない、思念の集合体を外から律することは困難なのかもしれません。
しかし、このことは同時に"隠された律法"を呼び起こす契機となるのかもしれません。




コメント
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