人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

マントラ、コトバ、ロゴス

2019-02-16 11:51:36 | 祈りと瞑想
「ちなみに、筆者のダラニは、"自灯明、法灯明"である。まさに煩悩が起ころうとするとき、この語句を思い起こすか、あるいは単にそのイメージを思い浮かべるだけで、ただちに起ころうとする煩悩、我執から解放され、自己そのものが安息処に変わる。すると、そのままがダンマの独活.独用となる」
(玉城康四郎「仏教を貫くもの」/大蔵出版刊)

様々な宗教で、インド.ヨガでマントラと言われる短い語句を唱えたり、念じたりすることを伝えていますね。
仏教の「南無阿弥陀仏」の念仏や、「南無妙法蓮華経」の唱題などは、ダラニと言われる呪文、呪句が簡素化されたものですが、パッと言葉が出てくるだけで、意識が集中してくるなど、とても即応性が強いところがあります。
このマントラというのは、人によってどの文句が適しているかは異なっているので、いくら「これを唱えたら感応、霊験がある」からと人から勧められても、それが自分に合っているとは限らない訳で、押し付けがましい勧誘は有り難迷惑という他ありません。
ちなみに私の場合、数少ないそういう修法と接してみた限りでは、かなりマイナーですが、道院紅卍字会に伝わるいくつかの神呪なのでした。
私が割りとしっかり修行らしいことをしていたのは、40年くらい前、同会に入る前の見習い期間の三ヶ月間くらいで、ほぼ毎日その神呪を心に念じながら、公園やどっかの休憩所など場所を選ばず、同じく伝えられたその静坐法を修していたのです。
すると、決まってまず、ポカポカと手の辺りに暖かみを覚え、時にその周辺、全身へとそれが拡がっていく感じになったこともあります。
そして自ずと意識がある中心に収斂してくるようになります。
それは、神呪を念じることでそうなることが多いのですが、理由は何故だかよく分かりません。
こないだビルの休憩所で、久しぶりにそれを修していたら、同じように手がポカポカしてきまして、40年前とつながったようになりました。
この暖かみというのは、実際に温度が上がるのかも知れませんが、物理的な暖かさだけではありません。
これは心(多く意識も含む)身両面に関わるものなのでしょう。
ハッキリとは言えませんが、私が"意識を向けると、パッとなる"ことを覚えたのは、この修法と関係があったかもしれないのです。
ただ、そこから離れたところで起こる場合は、もっと意識が拡大するなど、意識的になっているとは言えます。
それはマントラを唱え、あるいは念じなくともそうなります。言葉が介在しなくとも、人為的な意志を超えて、身に覚えているためでしょう。
何て言うか、そうなった感覚が無為的に思起されることでそうなるのです。
思起するということは、原体験があることが前提だと思われるでしょうが、必ずしもそれは今生?でそういうものに与らないとならない訳でも無いと思います。我々は元々そういう覚えのあるものを持って、生まれてきているとも言えるでしょうから。
エンライトメントの体験などでは、しばしば今生で経験していないことが、意識の覚醒と共に思い起こされたりするのです。
そこには言葉を超えたーと言うからにはどう言い表していいか分からないですがーものが既に意識の内奥では知られているのです。
それはある契機で表顕された時、その思起となったりするのでしょう。この言語化される以前にあるもので、それが相対化される中で言語として表されるものを西欧で"ロゴス"と呼んでいるものだと思われます。
ロゴスは単純に"言葉、論理"という意味に解されるようですが、その"原態"というものが伝わらないと、聖書のヨハネ伝の"ロゴスは神なりき"などにある"神のみことば"は人間の言葉として置換されてしまうだけでしょう。
マントラは、こうした未分化以前の"原言語"と共にあってこそ、生きたものとなり、原言語が表に伝わったならば、形としてのコトバを介することも必要ではなくなるものでしょう。
玉城先生の"自灯明、法灯明"なるものも単なる言葉以前の響きが感じられます。
コメント
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