人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

有為、無為の際

2019-11-19 12:11:33 | 現臨、ハタラキ
私が、"神の手がかかる"、とか"現臨、神的なものに捉えられる"、というのは、思考機能や"為そう"とする、有為的な働きが後退してしまうような事態のことを言い表しているのですが、そうなるまでの間、考えようとしているのか、何かを為そうとしているのか、"じたばた"と無駄な抵抗をしているのか、この有為的なものと、無為的なものとの際に立たせられているプロセスというのもあるものです。
この間では、弱まりつつあっても、起こっていることに疑念を思ったり、解釈したりある程度思考を巡らすことも出来るのです。
そして、掴まったが最後、逃れる術が無くなるという、あの世にも恐ろしい(?i)魔の手から逃れることも可能なはずです。私は一度も試みたことはないですが...
30数年前、私が初めて"人生の裏側"に踏み入れた時の、その扉が開かれる直前のことはよく覚えています。
私はそれまで、自分のカルマというか、業想念というものが浄化され、無くならないと、神的なものとつながることは出来ない、という先入観を根強く持っていたのです。
といって、その業をどうとかしようと思っても、どうなるものでもありません。それを消し去る術が分かりません。
"自分を超えたもの、神的なものに依らなければ、ダメなのだ"、ということも観念的には思っているのですが、現実的には何も手がつかない状態だったのです。
しかし人間というものは、ご存知のように何かを考える、何かを為そうとする生き物ですね。
どっかで自分の思いで、その業想念を消し去ろうと、又そう出来ると思おうとしてしまうのです。
これは自分の思念、意念というものを過信している訳です。無理もありません。その限界、際というものを知らないのですから...
で、そんな私に唐突にああいうことが...これは何故、そうなったか?、多分その日の朝からの原因不明の発熱が起因していたのでしょうが...既に思考力、気力とも減退しているところへ、ヒタヒタと見えない何かが迫ってきたではありませんかi...
"それは、私の周囲を覆い初め、私の内部まで浸透しようとしている...これは魔の手か神の手か? 私は業想念をクリアしてないはずなのに、邪悪な霊にたぶらかされているのではあるまいか?"
しかし、こういう疑念を巡らせども、その迫りくるものは、その疑い、迷いを全く寄せ付けないものをもたらしていたのです。
"これは疑うことが出来ないのだi
愛、リアリティ、平安...疑えないi、信じられないi...こんなものは今生で出くわしたことがないi...知らなかったi
神、サタン...何であっても、どうなってもいい...思うことも、為すことも果ててしまっているのだi"
そこでは、疑うとか信じるとか、こちらの心的作用に纏わることはすべて超えられていたのです。
私はそれを"信じて"受け入れたのでも、自分からそれにゆだねることが"出来た"のでもないのです。
すべてあの御方が顕わになり、臨んだことでそうなったのです。
私の一切の疑念、迷いをうち破り、開いたものは、この圧倒的臨在の事態に他なりません。
一つ言えることは、その時にも示されたことですが、私は私の知らないところで、この邂逅を望んでいたということです。
しかし、先にこの見えざる導きにあって、残された自分の思念、意念を使ってそれから逃れることもあるいは可能などと言ってみましたが...
これは、そういう際に立たされた人間のことを言っているのですが、そんなことを目論むような愚かな人間は多分居ないでしょう。私は知りませんi 思いを超えた事態のことを示されて、そこから逃れようなど、ホントに度し難いことと言う他無いですから...
一度、神を知ったなら、もう受け入れざるを得ないのですi






コメント
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