人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

~の中に

2019-11-03 04:58:19 | 求道、探究
「"信ずる"とは知識的に是認することではない。また感情的に信頼することでもない。キリストを信ずるとは彼の人格の中に我が人格を投入することである。そうして我を無き者として、彼をして我に代わって我がうちにあらしむることである」(小池辰雄)
「人間の魂は、理屈では救われません。...私たちがキリストに抱かれるというか、キリストの中にあらしめられると、生命の御霊の法則が働いて救われるのです」(手島郁郎)

"信ずる者は救われる"という言葉の通り、これまで多くの宗教で、観念的に"信じること"ばかり説かれてきました。
しかし、"信じる宗教"の在り方は、巷ではオウム真理教の事件などを通して、迷妄に陥るか、生きる上で何らの力ももたらされないということが認知されているようです。
そして今日では新たに数多スピリチュアルの名の下に、宗教に代用して展開されてきています。
そこで、その"新手の教え"は従来の宗教とは異なることを強調して、例えば所謂ノンデュアリティのように、"神は教理を信じることでなくて、あなたのうちにいる、あなたが神そのものなのです..."などともっともらしく説かれたりします。
しかし、もっとも肝心なことは、どういうことがそこで説かれているか、何をどう理解するかということではありません。
具体的にそうあらしむるものが無ければ、我々は抽象的に信じるしかないからです。
宗教だろうと、何かのスピだろうとその教えに関心があるのなら、どうしたって信じようとするのです。
こういう有り様は、信じる私が居て、信じられる教えという二元があるということで、ちっともノンデュアリティ的ではないでしょう。
問題は宗教、何教、スピ、二元、非二元...といったことじゃありません。
もう言葉の詮議などで魂はどうともなるものじゃないのです。
このように精神的な道においては、いくら形は変われども、どこまでも思念、観念ごとに流されてしまうものです。
たとえ、あなたの中に神が、キリストがお在すとしても、具現するものを欠いたならば、そう思い描いているだけでしょう。
"内在信仰"というものは、あたかも思い描いている自分が神を取り込むようになり、こうした穽に陥り安いものです。
私がいつも言っている、現臨にあるということは、キリスト教的にはキリスト、聖霊にあるということです。
これは小池、手島両先生がいつも強調されていたことで、~の中に、~の中で祈り入るという消息を伝えているものです。
私は、小池先生の集会でも、キリスト者でない、大調和協会の命位様と接見している時でも、そういう場にしばしば導かれたものでしたが、いつの間にか、信じようという意志的心理が抜け落ちてしまい、頭では分からないながらも、自分は愛と平安のうちにあることが自然(じねん)に知らされたのでした。
意識を向けるも何も、勝手に向いてしまうのですが、現臨がそうさせるということです。
~の中に...ということは、神的なものを対象として、二元化、分離を強めてしまうことでもなく、自己を神そのものと、一つのものと信じようとすることで、やはり思念を超えられなくなることでもなく、無理なく、自然にそのものとの一体感をもたらすものと言えるでしょう。
それは、どこまでもそうさせるものが主導となることであり、そのものの前に自然と手を合わさざるを得なくなるでしょう...。
コメント
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