今日は文句なしの秋晴れですi
透き通るような青空、見上げていると吸い込まれそうになりそう...
アホなことを言うようですが、別段そういうことを信じようとしなくたってそうなっているのですi
それを受け入れるということは、そういうこと自体がバカバカしいほど、そのままだということですi
この抜けるような青空の事態を信じなければなりませんか?
認め、肯定し、受け入れなければなりませんか?
そのまんまのことに、"心の持ち方を何とかしましょう"だの、"暗い思いを手放して明るく持ちましょう"、だの何のかんのと付け加えようとすることは、一種の暴力を押し付けているようなものです。
多くの宗教、スピで説かれて来たのはそういうものばっか、だったのではないでしょうか?
"心の持ち方を変えねばならないi"、"ネガティブな思いを手放して、神と一つである自分を信じなければならないi"...中々そんな心境になれないのだけど、心が変わらなければ救われない、と刷り込まれているので、思おう、信じようとする...実際は思っている、信じているだけなのですが、ネガティブな変わらない思いはフタ閉めされたまま、心が変わったつもりになっているだけ...
この他、"自我があるから苦しいのです。しかし、自我というのは元々無いのですよ! 全体しか無いのですよi"
誰がそう決めつけたのでしょうか? 誰が誰にものを言っているのでしょうか?
青空を見ていて感じることは、そこに何かを付け足し、何か真理らしきもの、正しきものを切り取って、他に向けて何かを主張することが如何にバカバカしいことか、ということです。
かく在らしめられていることに何の理屈があろうかi
それを信じたり、肯定したりということもなく、"照らされているまま"だということです。
あまりにも、それまで何かに駆り立てられるように、信仰することに慣らされた人には、"ありのままを受け入れる"という意識付けも必要かもしれません。
なーんてこと言ったら、"ありのままを受け入れる行"をやり始める人も居るかもしれませんが(笑)...
ありのままという言葉が、"ありのままの境地に達しました"(笑)とか、何か特別なのことになってしまうほどありのままでないものはありませんi
自分がどんなにミジメだろうと、悪かろうと、おバカだろうと、ぶったおれていようと、そのままになっているのがありのまま...すべてが筒抜けに、吹きさらしになっているのがありのままです。
意識的になるとは、そのことを受け入れるということに他なりません。
これは自分の思念で何かを否定したり、肯定したりすることとは丸っきり違うことです。
受け入れることで、如何にその思念がありのままのものを見えなくさせて来たか、ということが分かり、同時に自分の思いで自分をどうとかしようという、無益な戦いを終わらせることにつながります。
又、こういうエラそうな物言いのことが、自分でテンデに分からなくなってしまうこともあるもので、それも受け入れざるを得ないのです。
あの"お照らし"の前にはホントに、ホントにどうしようもないことなのですi
こういうことはついこないだまで、とても書けない状態になっていたのですが、どうしようもないことなのですi
"ある促し"を受けちゃっているので...
"お前が神の国が来たようにリアルに感じられるようなことを書けi" と。
透き通るような青空、見上げていると吸い込まれそうになりそう...
アホなことを言うようですが、別段そういうことを信じようとしなくたってそうなっているのですi
それを受け入れるということは、そういうこと自体がバカバカしいほど、そのままだということですi
この抜けるような青空の事態を信じなければなりませんか?
認め、肯定し、受け入れなければなりませんか?
そのまんまのことに、"心の持ち方を何とかしましょう"だの、"暗い思いを手放して明るく持ちましょう"、だの何のかんのと付け加えようとすることは、一種の暴力を押し付けているようなものです。
多くの宗教、スピで説かれて来たのはそういうものばっか、だったのではないでしょうか?
"心の持ち方を変えねばならないi"、"ネガティブな思いを手放して、神と一つである自分を信じなければならないi"...中々そんな心境になれないのだけど、心が変わらなければ救われない、と刷り込まれているので、思おう、信じようとする...実際は思っている、信じているだけなのですが、ネガティブな変わらない思いはフタ閉めされたまま、心が変わったつもりになっているだけ...
この他、"自我があるから苦しいのです。しかし、自我というのは元々無いのですよ! 全体しか無いのですよi"
誰がそう決めつけたのでしょうか? 誰が誰にものを言っているのでしょうか?
青空を見ていて感じることは、そこに何かを付け足し、何か真理らしきもの、正しきものを切り取って、他に向けて何かを主張することが如何にバカバカしいことか、ということです。
かく在らしめられていることに何の理屈があろうかi
それを信じたり、肯定したりということもなく、"照らされているまま"だということです。
あまりにも、それまで何かに駆り立てられるように、信仰することに慣らされた人には、"ありのままを受け入れる"という意識付けも必要かもしれません。
なーんてこと言ったら、"ありのままを受け入れる行"をやり始める人も居るかもしれませんが(笑)...
ありのままという言葉が、"ありのままの境地に達しました"(笑)とか、何か特別なのことになってしまうほどありのままでないものはありませんi
自分がどんなにミジメだろうと、悪かろうと、おバカだろうと、ぶったおれていようと、そのままになっているのがありのまま...すべてが筒抜けに、吹きさらしになっているのがありのままです。
意識的になるとは、そのことを受け入れるということに他なりません。
これは自分の思念で何かを否定したり、肯定したりすることとは丸っきり違うことです。
受け入れることで、如何にその思念がありのままのものを見えなくさせて来たか、ということが分かり、同時に自分の思いで自分をどうとかしようという、無益な戦いを終わらせることにつながります。
又、こういうエラそうな物言いのことが、自分でテンデに分からなくなってしまうこともあるもので、それも受け入れざるを得ないのです。
あの"お照らし"の前にはホントに、ホントにどうしようもないことなのですi
こういうことはついこないだまで、とても書けない状態になっていたのですが、どうしようもないことなのですi
"ある促し"を受けちゃっているので...
"お前が神の国が来たようにリアルに感じられるようなことを書けi" と。