人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を待ちのぞむ

2019-11-27 12:05:01 | 人生の裏側の図書室
「もし永遠の救いがわたくしの前のこの机の前におかれていて、手をのばしさえすれば救いがえられるとしても、わたくしはその命令を受けたと思わないかぎりは、手をのばしませんでしょう」(シモーヌ.ヴェーユ「神を待ちのぞむ」/著作集第4巻所収/春秋社他刊)

最近、おおよそ36年ぶりで20世紀のフランスの女性思想家(主として神秘思想と社会思想)シモーヌ.ヴェーユの上記の著書を読んでみました。
ヴェーユはユダヤ系の人。しかし、同系の人で彼女ほど反ユダヤ的なことを熱烈に言明していた人を私は知りません。
反ユダヤと言ってもこの場合、ユダヤ民族排斥と結び付いてある社会に伝播する、所謂反ユダヤ主義のことではなく、聖書的世界から旧約的、ユダヤ的伝統を排除しようとすること、主としてキリスト教のユダヤ的源泉を否定するような言説のことです。
ユダヤ的なものと、もう一つローマ帝国に由来するものが、キリスト教の歪曲、腐敗の本質的な原因になっているとし、この二つの流れは、国家主義や民族主義と結び付いて純粋な宗教的在り方を変質させたのだ、と...
そして、彼女は古代ギリシア的伝統に、ユダヤ的伝統に取って代わるキリスト教の源泉を求めました。又バカバット.ギータや老子など東洋思想にもキリスト.イエスの教えに通底するものを見い出していました。
つまり、ヴェーユが戦っていたのは、純粋な宗教、精神的な道にはびこる、本質から逸脱した非寛容、独善的な在り方であり、代わってキリストの道に息づいている普遍性を明らかにしようとしていたのです。
「カソリックは普遍的でなければなりません」(同書)
カソリックの修道士J.M.ペラン(この著書は、ヴェーユのこの神父宛の書簡を中心に構成されています)との親交を通じて、ヴェーユに「洗礼を受ける」という意志が芽生え出したのですが、カソリック教会に「アナテマ.シット(彼は破門されよ)」という言葉で、異なる信仰を排してきた歴史があるために、ついにその門を超えることは出来ませんでした。
このことは、当然彼女の教会観とも深く関わってきます。
「キリスト教の肉化(教会の形成についてのキ教の伝統的な解釈として、こういう表現が用いられる)ということは、個人と集団との関係の問題の調和ある解決を意味しています」(同書)
ヴェーユの洗礼を前にしてのためらいには、見える教会と見えざる教会との相容れられない敷居が横たわっていました。
彼女の魂も又、私が親しんできた思想家たち...ベルジャーエフ、エマーソン、ティヤール.ド.シャルダンらと同じく見えざる普遍教会を志向していたのです。
しかし今の私には、ペラン神父がこのヴェーユの言説について「理知的な方向に傾き過ぎている気来がある」と述べている通り、どこか余所行きなところも感じなくもありません。
イエス.キリストの神...それはユダヤに源泉があろうと、ギリシアだろうと、東洋だろうと...いいや、そう呼ばれるものでなくとも、私が私でなくなるほどにも、あるいはあまりにも私自身であるようにも、直にあいまみえるものでなければ、人がそう言っているものでは、この魂はどうにもならないのではないか?
シモーヌ.ヴェーユには、確かにこの言い表すことの出来ない自身の霊的源につながる息吹きは伝わってきます。
ただ、他に理解を求めようとする時、客観的な表現を借りようとするあまり、理知的に走ってしまう傾向があったように思います。

私が36年前、どうしてヴェーユに共感をもったのか何となく分かりました。
キリスト教的なものに惹かれていながら、どうしてもその門を超えることが出来なかったこと...普遍なるものへの希求が始まっていたこと...見える教会の裏側に息づく見えざる教会の存在...
それは、私が初めて"人生の裏側"に踏み入れることになって、数ヵ月後のことだったのです。
ヴェーユの言葉には、私の内部に発揚していたものに触れて来ざるを得ないものを感じていたのです。







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