人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ストレスと愛

2020-02-04 11:56:36 | 
昨日、ある飲食店で、ほんの些細なことからあわや、殴り合いのケンカにまで発展しそうな場面に遭遇しました。
隣に居た私が恐る恐るその一方に聞いたら、何でもその相手が店内でラジオかなんかをボリュームを上げて聴いていたので注意したら、"うるせーi、とか難癖つけてきたので"...と、まあよくある話です。
私が一寸間に入って、一旦は収まりかけたのですが、そっから又、"おい、この野郎i"となってしまうから、もういけません。"もう、知らんi、オレはさっさとメシを食う..."
つい一週間前にもよく行くファミレスで、私の近くでやはり音出しで聴いていたので、私は、"おい、てめえi"と...言いたくなったのですが、店員に言いつけてやろうかと迷った挙げ句そのままになりました。
その一寸又前は、コンビニのイートインで、激しく貧乏揺すりしながらスマホに夢中のオバ姉ちゃん?が...(女の人でこういうのは初めて見ましたが...)振動はあまり伝わって来なかったので、やはりそのままにしました。
直接当人に言うのは、トラブルに巻き込まれたくないから嫌ですね。気が小さいし。
こういう場合はなるべく店員に振った方がいいと思いますよ。十字架の店員には店長も居るだろうし、その上には社長も、その上にはカミさんも居るから大丈夫でしょう?
いやはや、今更ながら世の中、ストレス社会だということをマザマザと感じざるを得ません。多くの人はストレスをどこにぶつけていいのか分からないのです。
はけ口というよりも、その暴発の抑制ともなるもの、和める方に向かうものを知らないのです。
それは抽象的なものでない、具体的に感じられる愛だと思います。
こう書くと、どうしても、"愛は具体的な行動が伴わなくてはいけない"、"お互い愛ある、思いやりをもって行動しましょう"、なんて風に受け取られてしまうようです。
ああ、じっつにそう出来ない私は、ストレスを抱えて潰されそうになる話ではないかi
具体的に胸の辺りに感じられる愛というのは、例えは適切でないかもしれませんが、(現にある)モノとして感じられるようなものです。といって物質のような固形物のように感じるものでは全くありませんが(余計に分からないか?)...とにかく抽象的に思い描くようなものでは無いということです。
又思いやりをもって行動しなければ...というのは、倫理道徳の話で、このストレスでパンパンになり、溢れかえっている世の中は、そんなものでどうともならないでしょう。
"愛といったって、相手が居ないi"...といったって、ずっと孤独な私がそう言っているんです。もっとも見えない最愛の人が居るのかもしれませんが...
神のことは分からなくとも誰でも最愛の、もっとも惹かれてやまないものと共にある時、そうでなくともそれらが媒体となる、自分に元々息づいている愛そのものを感じられないでしょうか?
この原初的な愛にあるということは、普段より意識的になっているということでもあります。そこに自ずと他への気遣いというものも生まれるのです。
本当に今我々は、神的なものを失い、そこから切り離された時代相に生きていることが痛感されます。
それだけに...神的なもの自ら顕わになってくるのを覚えずにおれません。
あのオッサンたちのケンカを見てたら...本当に救いようの無い時こそ、救いが近いのだと...。
コメント
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