「愛なるものは、抽象的なものじゃない、実存的なものです。愛というものです」(手島郁郎「ヨハネ書簡講義下巻」/手島郁郎文庫刊)
「もし、あなたが心を開いてみるなら、あなたが必要とする愛がもうすでにすべてあなたに備わっているのが分かる。...私たちは、まさにここに、私たちの内側に愛があるにもかかわらず、その愛が見えないだけなのだ」
(ドン.ミゲル.ルイス「愛の選択」/コスモス.ライブラリー刊)
私が書いているものは、私自身がそうとは知らずに、朧気に昔から感じていたことが、そうして書いているうちに、ある時から意識的になり、そのことがいっそうありやかに写し出されるようなことが多いのです。
実に書くことは魔法みたいです。
ずっと、"誰が読むのか、又読んでどう受け取って、理解してもらえるのかなど、わしゃ知らんi"、というような心持ちで書いていたのですが...今、私はこのことを多くの方に伝えたい、受け取ってもらいたい、という気持ちでいっぱいなのですi
何より、こうして書いている私自身が、"幸せでたまらないi"、って気分になってしまうのです。私はとうていこんなことを言える人間ではなかったのに...
私は幼い頃から恵まれた家庭環境になく、人並みに愛というものを知らずに育ってしまったようで、人の痛みも分からず、対人関係もぎこちなく、ずっと孤独であることが当たり前のように生きてきたのです。
でも、その人生を本当に恨んだことはありません。ということは本当にそんな自分を"嫌いになる"、ということは無かった、ということです。
何かと問題がある私ですが、自己嫌悪を他者にぶつけて、破滅的になり、非行に走るとか、又は引きこもりになる、ということも特に無かったのです。
ずっと孤独で居ることが好きだったですが、本当の意味での孤独感というものは感じてこなかったようです。
常に本当に大切なものと共にある、それに守られている、という感じがありました。これを思うともうたまらない...
世の中で愛というものは、他者、特に人間であるのは言うまでもないですが、与えたり、与えられたりという相手との関係性の中で生まれるものとされるようです。
それも確かなことに違いないでしょうが、ではその相手が離別、死別などで失ってしまったら、あなたからその愛も無くなってしまうのでしょうか? むしろそうなることで一層強くなることだってあるのではないでしょうか?
そして、この愛は相手からだけでなく、自分に元々備わっていた、内側からあふれでてくるものでもある、ということが分かると思います。
そして、かかる愛は、"愛する、愛される、ということ"であるよりも、"愛というもの"、ということが分かるでしょう。この意味での愛とは具体的なものなのです。
しかし、この愛も単独の自分のみから生まれるものではないでしょう。そこには私という個に先立つ、私を超えた神的なものとの原初的関係性というものを抜きに考えることが出来ません。
この愛をふかーく味わってみることで、自己嫌悪でなく、自己信頼が生まれるのです。
自分を信じ、愛せない、ということは、人も、神も何も信じ、愛せないということに等しいことでしょう。
愛というもの...それはこの現代世界が見失ってしまったもので、もっとも大切なものに違いありません。
「もし、あなたが心を開いてみるなら、あなたが必要とする愛がもうすでにすべてあなたに備わっているのが分かる。...私たちは、まさにここに、私たちの内側に愛があるにもかかわらず、その愛が見えないだけなのだ」
(ドン.ミゲル.ルイス「愛の選択」/コスモス.ライブラリー刊)
私が書いているものは、私自身がそうとは知らずに、朧気に昔から感じていたことが、そうして書いているうちに、ある時から意識的になり、そのことがいっそうありやかに写し出されるようなことが多いのです。
実に書くことは魔法みたいです。
ずっと、"誰が読むのか、又読んでどう受け取って、理解してもらえるのかなど、わしゃ知らんi"、というような心持ちで書いていたのですが...今、私はこのことを多くの方に伝えたい、受け取ってもらいたい、という気持ちでいっぱいなのですi
何より、こうして書いている私自身が、"幸せでたまらないi"、って気分になってしまうのです。私はとうていこんなことを言える人間ではなかったのに...
私は幼い頃から恵まれた家庭環境になく、人並みに愛というものを知らずに育ってしまったようで、人の痛みも分からず、対人関係もぎこちなく、ずっと孤独であることが当たり前のように生きてきたのです。
でも、その人生を本当に恨んだことはありません。ということは本当にそんな自分を"嫌いになる"、ということは無かった、ということです。
何かと問題がある私ですが、自己嫌悪を他者にぶつけて、破滅的になり、非行に走るとか、又は引きこもりになる、ということも特に無かったのです。
ずっと孤独で居ることが好きだったですが、本当の意味での孤独感というものは感じてこなかったようです。
常に本当に大切なものと共にある、それに守られている、という感じがありました。これを思うともうたまらない...
世の中で愛というものは、他者、特に人間であるのは言うまでもないですが、与えたり、与えられたりという相手との関係性の中で生まれるものとされるようです。
それも確かなことに違いないでしょうが、ではその相手が離別、死別などで失ってしまったら、あなたからその愛も無くなってしまうのでしょうか? むしろそうなることで一層強くなることだってあるのではないでしょうか?
そして、この愛は相手からだけでなく、自分に元々備わっていた、内側からあふれでてくるものでもある、ということが分かると思います。
そして、かかる愛は、"愛する、愛される、ということ"であるよりも、"愛というもの"、ということが分かるでしょう。この意味での愛とは具体的なものなのです。
しかし、この愛も単独の自分のみから生まれるものではないでしょう。そこには私という個に先立つ、私を超えた神的なものとの原初的関係性というものを抜きに考えることが出来ません。
この愛をふかーく味わってみることで、自己嫌悪でなく、自己信頼が生まれるのです。
自分を信じ、愛せない、ということは、人も、神も何も信じ、愛せないということに等しいことでしょう。
愛というもの...それはこの現代世界が見失ってしまったもので、もっとも大切なものに違いありません。