私は思いを超えたものー現臨を身に覚えて、主として書物との出会いから、教えも形も異なったいくつかの宗教的、精神的グループと関わることになりました。
その歩み方が普通と一寸違うところは、同時進行でそういう関係をもつこともザラにあったということでしょう。(これが異性関係だったら大変なことでしょうね)
これは自分の中から、その本を読まずに、その団体を訪ねずに居れなくなるような衝動を覚え、そう赴かざるを得ないような促しに従ったまでのことです。
これには具体的なあるキョーレツな感覚を伴っているのですが、それはどの場合においても同じものなのです。
これが実に肝心なことで、つまり一つのものに導かれたということなのです。
私は知らず知らずに、それぞれ色も教えも異なるグループのうちに、この一なるものが息づいていることを学ばされていたようなのです。
当然のことながら、その異なった道も大体がそれぞれの説き方で、そうした全一的な道を差し示していたのです。
この一なるものは、言うまでもないことですが、諸々の道から切り取った一なるもののことではありません。それは全一的な一ではなくて、相対的一というべきもので、数多の不調和、相克、そして狂信、妄信を作り出すものです。
これは端的に言って、思念が超えられるか、否かということで分かれてしまうものでしょう。
程度の差はあれども、全一的な道を示した、私に縁のあったグループでも、こうした"我々の道は、他の道とはかくかくの如く違う"式の分離した教説に接したこともありますが、私はその度にある生理的な拒絶反応を示しました。
そういう全一のものから切り取られたような教えを理解することも、理解しようとする気も起きてきません。その団体が全一的な道を説いているから余計にそうなるのでしょう。
そして、私は真の一なる道はこの現実世界では求むべくもない、という結論に至り、それを求めることは諦めてしまいました。
人間がこの世に生きることは、相対的宿業を背負わざるを得ないものです。
勿論私も例外ではありません。私が自覚されている限り、古来より宗教、精神的道にまとわりついた、かかる相対的宿業といったものに対し、強固な相対的心情を顕わにすることは認めなければならないでしょう。
でも、一なるものは今も私に息づいているのも確かなことです。
もし、人間の根底にこの一なるものが息づいていなければ、この人類世界はとうに滅び去ってしまったことでしょう。
しかし、相対的人間は自らこの一なるものに帰ることが出来るのでしょうか? いや、だからでしょうか、私は一なるもの自ら現れ出でようとしているのもヒシヒシと感じています。
それが果たしてどのように、この現実世界に表れ、結実されるのかは知る由もないですが、今はこうして何ごとかを書き記しているだけです。促されるままに...。
その歩み方が普通と一寸違うところは、同時進行でそういう関係をもつこともザラにあったということでしょう。(これが異性関係だったら大変なことでしょうね)
これは自分の中から、その本を読まずに、その団体を訪ねずに居れなくなるような衝動を覚え、そう赴かざるを得ないような促しに従ったまでのことです。
これには具体的なあるキョーレツな感覚を伴っているのですが、それはどの場合においても同じものなのです。
これが実に肝心なことで、つまり一つのものに導かれたということなのです。
私は知らず知らずに、それぞれ色も教えも異なるグループのうちに、この一なるものが息づいていることを学ばされていたようなのです。
当然のことながら、その異なった道も大体がそれぞれの説き方で、そうした全一的な道を差し示していたのです。
この一なるものは、言うまでもないことですが、諸々の道から切り取った一なるもののことではありません。それは全一的な一ではなくて、相対的一というべきもので、数多の不調和、相克、そして狂信、妄信を作り出すものです。
これは端的に言って、思念が超えられるか、否かということで分かれてしまうものでしょう。
程度の差はあれども、全一的な道を示した、私に縁のあったグループでも、こうした"我々の道は、他の道とはかくかくの如く違う"式の分離した教説に接したこともありますが、私はその度にある生理的な拒絶反応を示しました。
そういう全一のものから切り取られたような教えを理解することも、理解しようとする気も起きてきません。その団体が全一的な道を説いているから余計にそうなるのでしょう。
そして、私は真の一なる道はこの現実世界では求むべくもない、という結論に至り、それを求めることは諦めてしまいました。
人間がこの世に生きることは、相対的宿業を背負わざるを得ないものです。
勿論私も例外ではありません。私が自覚されている限り、古来より宗教、精神的道にまとわりついた、かかる相対的宿業といったものに対し、強固な相対的心情を顕わにすることは認めなければならないでしょう。
でも、一なるものは今も私に息づいているのも確かなことです。
もし、人間の根底にこの一なるものが息づいていなければ、この人類世界はとうに滅び去ってしまったことでしょう。
しかし、相対的人間は自らこの一なるものに帰ることが出来るのでしょうか? いや、だからでしょうか、私は一なるもの自ら現れ出でようとしているのもヒシヒシと感じています。
それが果たしてどのように、この現実世界に表れ、結実されるのかは知る由もないですが、今はこうして何ごとかを書き記しているだけです。促されるままに...。