人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

魂の読書

2020-02-13 11:37:46 | 人生の裏側の図書室
何度か書いているように、昭和54年春、私は現臨ともいうべきものを恒常的に身に覚えることになったのです。
それは勿論今でもそうなのですが、その感覚は一端翌年夏、(自覚している限りでは)突如自然消滅してしまったのでした。
人が宗教であれ、スピであれ精神的な道の縁に触れる端緒となるもの、その媒体として、現代では書物との出会いというものが不可欠なものと思われるのですが、私のこの秘儀参入入門期間(?)に出会った書物たちとの縁というのは、取り分け忘れ難いものがあります。
これを揚げれば...「無者キリスト」(小池辰雄)、「解脱の真理」「心身の神癒」(マクドナルド.ベイン)、「精神と現実」(ベルジャーエフ)、大調和協会会主、命御口述による「大調和世界観開顕之聖業発祥」、「日月神示」、それを継承すると思われる、知られざる神示「要之神示」...
これらは、あの燃えるような意識の高揚感と、身震いするような(本当に震え出してしまったこともあります)一種の内的感覚と共にあるものです。
無論、これに限ったことではありませんが、このことはこの期間に特徴的だったことなのです。
理由はよく分かりません。ただその書き物を手に、否「取ってみよi」とばかりに何者かに促されるように取り、そしてページをめくるやいなや、「これをとくと読め、味わえi」とさらに畳み掛けてくるものを感じて、例のような事態になってしまうのでした。
私はそれらの書物から何を求めようとしていたのでしょうか? 何かの知識を得ようとしてないのは明らかなことです。
改めて考えるまでもなく、そういう類いの本などは一切ありません。
又、私はこれまで例えば、何かの瞑想方法であるとか修行マニュアルなどに関しての本はほとんど読んだことがありません。
もとより、そういうものに赴くことが無かったということなのですが、もし、その方法なりが思いを超えた、神的なものとつながることを企図したものだとすれば、手にして、読むだけで何かじんじんと感応してくるものを覚えさせられていたからなのかもしれません。
"それを読むことでああなってしまうのか、ああなってしまうから読まされるのか?...言葉を通して言葉を超えたものに会おうとしているのか?...確かに、知的概念を求めているだけなら、ああいうことにはならないだろう..."
ある人は"魂の読書"ということを言っています。
それは、全く誇張でなく、魂が求め、魂で味わうという読書体験というものはあるのですi
読むだけで精神的目覚めに与る、ということもあるでしょう。私自身その一歩手前だった、ということも経験しています。
読書は、ともすれば頭でっかちの知的遊戯に流れるだけのものになるかもしれませんが、頭だけの読書など、その半分も価値を見つけることは出来ないでしょう。
魂の読書は、あなたの人生を変えるかもしれないのですi
コメント (6)
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