改めて"感じる"ことなのですが、こうして書かされていることも、人生の歩みについても、私には"感じること"、感覚に負っている部分がとても大きいのです。
思想とか、考えたりすることでも、それが深く自分の中に根付かされるのは、感覚が伴っているからでしょう。これは知性と感性というものは、深い部分でつながっているからそうなるのです。
感覚というと、体感とかいって身体と結びつけられるものですが、あまり認識されていないもので、"内的感覚"と私が呼んでいるものこそ、私にとり"見えない導き"そのものと言っても過言ではないのです。
これは身体のみからは来ないものなのですが、じゃ他はどこから来るのか?、精神?、霊体?...それは意識と密接な関係があることは分かるのですが、何かは分かりません。感覚的なことなので...
一つ言えることは、肉体があって、精神があって、霊体やらアストラル体やらがあるといった認識は、そう"考えられている"のでしょう。
純粋に感じられることには肉も霊も無いのではないでしょうか? つまりそのように分けられないということ...元々が心身合一的なものから来るのではないでしょうか? 内的感覚というものはそのようなものを言い表しているのです。
これに照らせば、ある種のスピで語られる物質と精神、霊とを分けて、やたらと"物質は無い!、ホントの自分は霊、神なのだi"、何て宣っているのは、その実強固な観念に支配されているようにしか思えません。
そう信じようとしているものばかりが伝わり、抽象的でちっともリアリティが感じられません。むしろそうした観念性が強くなるほど凝固的、物質的なものを感じてしまいます。
このリアリティというものこそは...そういう実在するモノがあるからではなくて、まさにそう感じるということから来るのではないですか?
こういうことは、いつも言うように、とかく宗教、スピ界で陥りがちな、"理に走りすぎる"ことからでは、分かったつもりにはなっても身はちっとも頷いてくれないのです。
人生の裏側に足を踏み入れてみるならば、そこに決めつけたり、切り取ってみたり、分離出来るものは何も無い...こりゃ、もろノンデュアリティの言い種ではないか?...真理はこれっきゃない?
冗談じゃありませんi 、切り取られたノンデュアリティ、これほどの真理へのギマンはないi
決めつけ、分離、相克...どうしたって世の中そうなっているように"感じる"ことだってありますよ。
あまりにも卑俗な、バカバカしいことだってあるでしょう...私が感じているんだから間違いありません。
ただ、そのように決まったもののようには感じられないということ...今日は寒風が吹き荒れてつらく感じることもあれば、明日は小春日和で幸せに感じられるということです。
私が感じていることに、一元も二元も、聖も俗も無いのです。
あなたが感じていることもその通りのものでしょう。
私はどうしたって自分が最も愛しているもの、幸福になれるものにすぐ感じてしまいます。
それが真理かどうかなど知りません。理屈じゃないから...
私の人生で"導かれる"ということはそういうことなのです。
思想とか、考えたりすることでも、それが深く自分の中に根付かされるのは、感覚が伴っているからでしょう。これは知性と感性というものは、深い部分でつながっているからそうなるのです。
感覚というと、体感とかいって身体と結びつけられるものですが、あまり認識されていないもので、"内的感覚"と私が呼んでいるものこそ、私にとり"見えない導き"そのものと言っても過言ではないのです。
これは身体のみからは来ないものなのですが、じゃ他はどこから来るのか?、精神?、霊体?...それは意識と密接な関係があることは分かるのですが、何かは分かりません。感覚的なことなので...
一つ言えることは、肉体があって、精神があって、霊体やらアストラル体やらがあるといった認識は、そう"考えられている"のでしょう。
純粋に感じられることには肉も霊も無いのではないでしょうか? つまりそのように分けられないということ...元々が心身合一的なものから来るのではないでしょうか? 内的感覚というものはそのようなものを言い表しているのです。
これに照らせば、ある種のスピで語られる物質と精神、霊とを分けて、やたらと"物質は無い!、ホントの自分は霊、神なのだi"、何て宣っているのは、その実強固な観念に支配されているようにしか思えません。
そう信じようとしているものばかりが伝わり、抽象的でちっともリアリティが感じられません。むしろそうした観念性が強くなるほど凝固的、物質的なものを感じてしまいます。
このリアリティというものこそは...そういう実在するモノがあるからではなくて、まさにそう感じるということから来るのではないですか?
こういうことは、いつも言うように、とかく宗教、スピ界で陥りがちな、"理に走りすぎる"ことからでは、分かったつもりにはなっても身はちっとも頷いてくれないのです。
人生の裏側に足を踏み入れてみるならば、そこに決めつけたり、切り取ってみたり、分離出来るものは何も無い...こりゃ、もろノンデュアリティの言い種ではないか?...真理はこれっきゃない?
冗談じゃありませんi 、切り取られたノンデュアリティ、これほどの真理へのギマンはないi
決めつけ、分離、相克...どうしたって世の中そうなっているように"感じる"ことだってありますよ。
あまりにも卑俗な、バカバカしいことだってあるでしょう...私が感じているんだから間違いありません。
ただ、そのように決まったもののようには感じられないということ...今日は寒風が吹き荒れてつらく感じることもあれば、明日は小春日和で幸せに感じられるということです。
私が感じていることに、一元も二元も、聖も俗も無いのです。
あなたが感じていることもその通りのものでしょう。
私はどうしたって自分が最も愛しているもの、幸福になれるものにすぐ感じてしまいます。
それが真理かどうかなど知りません。理屈じゃないから...
私の人生で"導かれる"ということはそういうことなのです。