人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

精神と現実

2020-02-15 10:50:38 | 人生の裏側の図書室
「精神こそ現実である...精神とは自由である。創造的行為である」(ベルジャーエフ「精神と現実」.著作集第五巻/白水社刊)

ここで取り上げる書物は、元々私個人に縁の深い、私が偏愛しているものを扱うつもりでいたのです。
ところがそれらは絶版になっているとか、諸々の事情で入手が困難なものが多く、一寸紹介するのを躊躇する気持ちもあったのですが、ここへ来て、極私的なことを書くという、当ブログの基本のコンセプトに帰ろうという風に傾いてきたのでした。
そうなると、この絶版になって久しいこの本を取り上げない訳には行かないというものです。
この書物は言葉の深い意味で、私にとっての"啓蒙の書"に他なりません。
啓蒙とは、暗い部分に光が照らされることです。それは傲慢にも誰かが誰かにそういうことを施すということではありません。
誰の所有にも、使役にも関わらない、人の思いを超えた、高きよりの光、即ち神的な、霊なる光を受けるということ...イリュミネーションに通ずるもののことです。
この書の前半部分は、この霊なるものについて述べられています。邦訳の"精神"という言葉に限定されると、著者の言わんとすることは伝わりにくく、英訳の「Spirit & Reality」の方が感じがつかめそうです。
つまりこの書は、"スピリチュアリティそのもの"に多く言及しているのです。こういう真の"霊学"というものの類書がほとんど無いというのは実に不思議なことです。
"いいや、スピ関連の本なら巷で溢れかえっている"、などと言うなかれi...例えば、心霊的なものの存在、霊界といったものの実在性などに躍起になって、霊なるものをモノとしてしか理解しようとしない思潮など、"スピリチュアルな物質主義"と言うべきではないですか?
真に霊なるものは、頭脳知、概念で捉えられるものではありません。エセ.スピにかかるとその観念に取り付かれ、奴隷となるのがオチでしょう。
これに反して霊のハタラキに与ることには、自由がある...それは思いが超えられるということだから。霊とは存在というよりハタラキなのです。
では前記の、私の啓蒙体験とはどのようなものかというと...
幼少の頃より時折どうもこの現実世界で生きていることに、その現実感が感じられないというか、夢を見ているように感じてならない、という精神状態に陥ることがあったのですが、この書を読んでいる時、突如私の内部に、"そうだったんだi、僕はああなっている時、思われたものでない、別の、夢でない現実を仄かに見ていたのだi"という直感が電撃的に閃いた、ということだったのです。
又、心に思い描いていた宗教的な共同体、教会というものが、現実に関わってみて、私の内部に生きているものとまるっきり異なった、外的な死んだ構築物のように感じるのは何故か?、ということなど(これはベルジャーエフの主要なテーマの一つ、"精神の客体化"という問題と関わるのですが、ここでは触れません)...これは本当に電撃的なことで、心身に震えを来してしまったほどです。
こういうことを真実に自己の内奥に受容され、根付くことになれば、そのこと自体が精神的目覚め、エンライトメントに導かれることになるでしょう。それは前記イリュミネーションと結び付くことだから...
元より私のこの読書体験は、その一歩手前の事態のことであり、あの変容の瞬間を予感させるものだったのです。
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