人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と現実

2020-02-05 11:42:34 | 現臨、ハタラキ
ちょいちょい言っているように、思いを超えたもの~現臨にアクセスするには、現実に向き合うことが極めて大切なことです。というよりも、現臨にある、ということは現実と向き合わざるを得ない、ということなのですが...
どうも、こういう話をし出すと、"現実を直視しなければならないi"とか、"それを見ようとしないのは現実逃避だi"、なんてことに流れてしまうものですが、私はこの場合、そういうことを言っているつもりはありません。
いや、逆に"直視しなければならない!"と、意念を働かすならば、現臨に与ることは不可能になるでしょう。
そんな、心を構えたり、緊張するようなこととは全く違います。
じゃ、どういうことなのか?、どうすりゃいいのか?、って説明など要しないことです。そのままなんだから...
現実を見たくないのなら見たくないまま...弱いのなら弱いまま...そういうありのままの自分を受け入れる。
もし、ありのままでない自分がありのままになろうとしたら、ありのままでなくなりますよi
要するに、これは、"こうあるべき!"という、作為的なハタラキを加えないで、無為的な現臨のハタラキにゆだねる、ということに他ならないのです。光に照らされるまんま、ということです。
こう言うと、又"作為、人為的なものは捨てなければならないi"、なんて取られかねなくなるんだから、もーっ...こういう現実を受け入れなければ...
どうしようもないのが現実...その前には我々は無能無策でしかない、だから受け入れざるを得ないのです。
ぶっちゃけた話、現実というのは、自分が本当にリアルに感じたものを置いて他には無いものでしょう。現臨にあるということはそうなっているということです。
ただ何事でもそうですが、意志的なことで、受け入れようという意識、意識的になることは必要です。
ここが微妙なことで自分の意志に先だって、無為的意志みたいなのがハタラキ始めるのです。こう書くと難しいですが、何もせんでもそうなるのでこんな簡単なことはありません。
こうした思いを超えた現実の事態のことに、考えても分からないような何次元だの宇宙パワーだので飾り、空想、妄想ごとにうつつを抜かしていることが、この場合現実逃避につながるのでしょう。
そして得てしてそういう人間は、思いを超えたところから来る、無為的なものと、自我に起因する思いから来るものの区別が付かなくて、自分がデキルものと錯覚し出すものです。
彼らは自我の人為的な思いというものの限界を知らず、その現実に向き合おうとしないのです。
目覚めとは、この現実を受け入れ、目覚めるということの他に無いのではありませんか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする