人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

まるごとの私

2021-09-03 11:51:55 | 求道、探究
宗教やスピでは、昔から自我というものを問題にしてきました。
その掲示板やブログのコメント欄などを覗いてみても、そこで議論なんかが起きて、そういう場では互いが相手をトッチメることに躍起になって、互いに相手の自我性を暴き合ったりして、まるで自我の擦り合いのようになってしまう様などはザラにあるものです。
私自身のことに照らしても、こういう道を求める人というのは、よほど自我の強い人なんじゃないかと思えてきます。
"そうとも、自我の塊なのだi、悪いか?"...そいつは悪い、低い段階のものだと刷り込まれているから、ああいう炎上したことになってしまうのでしょう。
自我であること自体が悪い訳じゃありません。誰しも物心付けば、自然に芽生えてくるものなのですから...自然にそうなってるもの、与えられるものに悪いもの、不必要なものなど何一つ無いはずです。
問題は、自我ばかりになってしまうこと、自我に纏わる思いでいっぱいになってしまうこと、つまりは思いにトラワレてしまうことでしょう。
言い換えれば、そのことに気付けないということに尽きるでしょう。
何故気付けないのか?...向き合い、受け入れることが出来ないから...だって、そいつは悪くて、低くて、汚くて、ダメなヤツなんだから...こういう思いの刷り込みこそが"ガン"なのです。
こういう思いにトラワレることで、どう感じるでしょうか?...常に満たされない感じ、落ち着かない感じ、言い様の無い苦しみ...頭では"よくない"と分かっていてもどうにもならない...
こういうことが自覚出来る人は、そのことに向き合える、受け入れることが出来ます。
私自身の現実に向き合い、受け入れることが出来る...そして、思われた自分の限界を示される...ここに自我を超えた、思いを超えたものの予感が生まれるのです。
真我に目覚めることは、そのありのままの自分を受け入れることなしには開かれないのです。
そのこと自体が、真我を受け入れることに他ならないのですから...
ありのままの自分とは、悪くて、ダメな、いつもとっちらかってる、自我である自分のこと...いや、それだけでしょうか?
自我だろうが、真我だろうが、悪かろうが、正しかろうが自分自身のことです。
自我を無くして(こういうことを目論む向きこそは、自分に向き合えない人だろう)真我に目覚めることなど出来るでしょうか?
ありのままの私自体は、分離することなど出来ません。言うなればまるごとの私です。その私に向き合い、受け入れる...
さらに言えば、苦しい、問題だらけの自分の現実に向き合えるならば、そのように向き合わせる何かがあるのを感じられて来ないでしょうか?
そういうものが無ければ、自我にトラワレている自分から向き合えることは出来ないのかもしれません。
少しでも、そういうものが感じられるのなら、思いでいっぱいの心にも風穴が開き、霊なる風がそこから吹き込むことでしょう...。
コメント
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