自己を導く存在、ガイダンス...
私は例えば、守護霊という存在があって、それがどういうものか、といったような実在論としては、何しろ分からないのであるから、そのまま受け入れることは出来ないですが、そういう何かに導かれているという感覚そのものは否定出来ないものを感じています。
これについて、神に対するものと同様、自分以外の超越的な存在を認めたくない、それに依存したくないという向きもおられるであろうと思います。
それに対する私の観方、感じ方は、やはり神のこととほぼ同じようにならざるを得ません。
ガイダンス、見えない導き(私の場合多くこういう表現を使う)と私の実存は、切り離すことが出来ないのです。
切り離せないということは、よりその"導かれている感じ"を強くもつということであり、これは神と同様、他人行儀な素朴実在論からは導き出されないことなのです。要するに私自身と直結した問題ということに尽きるでしょう。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、神、導師、真我は同義なのです。
ただ、自分が自分を導くというのは、オカシイから超在したもののように言うまでですが、確かによく引き合いに出されるような、九死に一生を得たようなことも経験したこともありまして、"あれは守護霊のご加護かなあ"、と思ったこともありました。
しかし、これもよく聞く例で、願いごとをしてたら叶えられた、ということはあまりありません。それもそのはず、あまりそういうことをしたことがないから(アフンi)...
どうも叶えてくれそうにないというか、そういう願いごとをするべきでないと思っているのか...しかーし、別の意味では、ずーっと叶えられているとも言えるのです。
これは、祈らずとも内なる願いとしてずっとあるものなのですが...それが、先の"神、導師、自己が不離のもの"、という感じに導かれるということなのですi
これは、愛、平安、幸福に導かれることと言い換えてもいいことなのです。だから、あまり上辺のことには意識が向かわないのでしょう。
私にはずっと見えない導きというのは、こういう側面に働くものだ、という認識があったのです。多分、それ自体が見えない導きに因っているのでしょう(i?)
で、この見えない導きというのは、どういう風に表れるのか、といったら、もうこう言うしかありません。
現実にそう感じさせるものが現臨してくる...
この端緒は、意識を失いそうになる窮地から救われたことに由来しているのでした。
やはり、何かに守られている、導かれているという感じはずっとあるのです。
私は例えば、守護霊という存在があって、それがどういうものか、といったような実在論としては、何しろ分からないのであるから、そのまま受け入れることは出来ないですが、そういう何かに導かれているという感覚そのものは否定出来ないものを感じています。
これについて、神に対するものと同様、自分以外の超越的な存在を認めたくない、それに依存したくないという向きもおられるであろうと思います。
それに対する私の観方、感じ方は、やはり神のこととほぼ同じようにならざるを得ません。
ガイダンス、見えない導き(私の場合多くこういう表現を使う)と私の実存は、切り離すことが出来ないのです。
切り離せないということは、よりその"導かれている感じ"を強くもつということであり、これは神と同様、他人行儀な素朴実在論からは導き出されないことなのです。要するに私自身と直結した問題ということに尽きるでしょう。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、神、導師、真我は同義なのです。
ただ、自分が自分を導くというのは、オカシイから超在したもののように言うまでですが、確かによく引き合いに出されるような、九死に一生を得たようなことも経験したこともありまして、"あれは守護霊のご加護かなあ"、と思ったこともありました。
しかし、これもよく聞く例で、願いごとをしてたら叶えられた、ということはあまりありません。それもそのはず、あまりそういうことをしたことがないから(アフンi)...
どうも叶えてくれそうにないというか、そういう願いごとをするべきでないと思っているのか...しかーし、別の意味では、ずーっと叶えられているとも言えるのです。
これは、祈らずとも内なる願いとしてずっとあるものなのですが...それが、先の"神、導師、自己が不離のもの"、という感じに導かれるということなのですi
これは、愛、平安、幸福に導かれることと言い換えてもいいことなのです。だから、あまり上辺のことには意識が向かわないのでしょう。
私にはずっと見えない導きというのは、こういう側面に働くものだ、という認識があったのです。多分、それ自体が見えない導きに因っているのでしょう(i?)
で、この見えない導きというのは、どういう風に表れるのか、といったら、もうこう言うしかありません。
現実にそう感じさせるものが現臨してくる...
この端緒は、意識を失いそうになる窮地から救われたことに由来しているのでした。
やはり、何かに守られている、導かれているという感じはずっとあるのです。