人生で、先入観、固定観念というものが、しばしば我々の生き方を狭めてしまうものですね。
ことに精神的な道においては、それが超えられるか、否かということが大きな意味を持つものであるのは言うまでもありません。
私が初めて"人生の裏側"に踏み入れた時、その扉が開かれる直前~それは、まだ思考機能が完全にマヒしていない状態になっていることを意味しているのですが、そこである葛藤が起きていました。
私はそれまで長い間、神の恩寵であるとか、聖霊を受けるようなことというのは、それに見合うレベルに達していなければ与ることは出来ない、それには前世(漠然とではあるが、信じていたのです)から今生にかけて積み重ねてきたカルマを解消しなければならない、そうでなければサタンとか邪悪な霊にたぶらかされてしまう...といった観念を根強く抱いていたのです。
これは、全くその時、"現に"感じさせられていたことなのでした。ということは...正に扉の向こうに何が待ち受けているかは、すでに知らされていた、ということですi
"愛、平安、幸福の香りがするi...今生では感じたことなどない...しかし、そんなバカなことがあるだろうか?、何でこの僕に?、何かにたぶらかされているんじゃないだろうか?、これを受け入れていいものなのだろうか?..."
そして扉の向こうから聞こえてくる、愛、平安の出どころである、"声なき声"の促しを受けていたのです。
"目の前に何がある、現実を見るんだi"...ありのままの現実、それはありのままの自分...それに向き合うことをしきりに促していたのです。
又、現実とは現にそうなっていることに他なりません。自分がそれを受けるに相応しいかということも、前世のカルマも関係ありません。
そういうものは、思考の中にしかないのです。"声なき声"の主は、私の罪とかカルマのことなどのことは一切触れません。不問。
そして、人生の裏側の扉が開いたi...それは、私の心の目が開かれるということです。
すべての思いは、扉の外に置いていかなければなりません。
"いや、そういうものは、実はすべて自分の思いが作り出している幻想なのではないか?"...ということは思いました。その葛藤が起きていた時、そこから現世に意識が戻った時には...何しろ熱病に侵されていたのですし...
しかし、その渦中にあった時には不可能です。疑うという機能自体が働かなかったのだから...
そして、そのことは、たとえ幻想だったとしても、今もなお、アリアリとした現実として息づいているのです。現臨を通して...
前記した私が抱いていた先入観とは、神に対するものと結びついていた、と言ってもいいでしょう。
神は裁くもの...神への恐れの感情が根強くあったということです。
そして、神について抱いていた思いは手放しとなりました。
しかし...神は裁くものでなしに、神の方から私を誘い、愛、平安のうちに包みたもう...
こういう思いは私の内部から消え去ることはありません。
思い返せば、ああいうことになるずっと以前からその誘いを受けていたのではなかったか?
そのことは、私の本性と分かち難く、いよいよ深まってゆくのを覚えています。
ことに精神的な道においては、それが超えられるか、否かということが大きな意味を持つものであるのは言うまでもありません。
私が初めて"人生の裏側"に踏み入れた時、その扉が開かれる直前~それは、まだ思考機能が完全にマヒしていない状態になっていることを意味しているのですが、そこである葛藤が起きていました。
私はそれまで長い間、神の恩寵であるとか、聖霊を受けるようなことというのは、それに見合うレベルに達していなければ与ることは出来ない、それには前世(漠然とではあるが、信じていたのです)から今生にかけて積み重ねてきたカルマを解消しなければならない、そうでなければサタンとか邪悪な霊にたぶらかされてしまう...といった観念を根強く抱いていたのです。
これは、全くその時、"現に"感じさせられていたことなのでした。ということは...正に扉の向こうに何が待ち受けているかは、すでに知らされていた、ということですi
"愛、平安、幸福の香りがするi...今生では感じたことなどない...しかし、そんなバカなことがあるだろうか?、何でこの僕に?、何かにたぶらかされているんじゃないだろうか?、これを受け入れていいものなのだろうか?..."
そして扉の向こうから聞こえてくる、愛、平安の出どころである、"声なき声"の促しを受けていたのです。
"目の前に何がある、現実を見るんだi"...ありのままの現実、それはありのままの自分...それに向き合うことをしきりに促していたのです。
又、現実とは現にそうなっていることに他なりません。自分がそれを受けるに相応しいかということも、前世のカルマも関係ありません。
そういうものは、思考の中にしかないのです。"声なき声"の主は、私の罪とかカルマのことなどのことは一切触れません。不問。
そして、人生の裏側の扉が開いたi...それは、私の心の目が開かれるということです。
すべての思いは、扉の外に置いていかなければなりません。
"いや、そういうものは、実はすべて自分の思いが作り出している幻想なのではないか?"...ということは思いました。その葛藤が起きていた時、そこから現世に意識が戻った時には...何しろ熱病に侵されていたのですし...
しかし、その渦中にあった時には不可能です。疑うという機能自体が働かなかったのだから...
そして、そのことは、たとえ幻想だったとしても、今もなお、アリアリとした現実として息づいているのです。現臨を通して...
前記した私が抱いていた先入観とは、神に対するものと結びついていた、と言ってもいいでしょう。
神は裁くもの...神への恐れの感情が根強くあったということです。
そして、神について抱いていた思いは手放しとなりました。
しかし...神は裁くものでなしに、神の方から私を誘い、愛、平安のうちに包みたもう...
こういう思いは私の内部から消え去ることはありません。
思い返せば、ああいうことになるずっと以前からその誘いを受けていたのではなかったか?
そのことは、私の本性と分かち難く、いよいよ深まってゆくのを覚えています。