人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨の常住

2021-09-10 11:59:52 | 現臨、ハタラキ
私が精神的な道について書いていることは、そうした世界では多く説かれているような思い方、心の用い方といったことにはあまり触れていません。
感じ方、その感じたものがベースになっているのです。
これは、そういう生き方と言ってもいいのですが、それを不特定多数に向けて奨励している訳でも無いのです。
だって、その多数の人がそういう感じ方をするかどうかは分からないことですし...こういうことは改めて言うまでもなく、実に基本的な、当たり前のことだと思います。
そういうおこがましいことでなく、個人的な備忘録というつもりで書いているのです。
しかし、願いとしては、多くの人にもそのことを分かち合って欲しいということはあるのです。
とは言え、現実にはこうして日の当たらぬ場所で、独りよがりに思えるようなことを性懲りもなく書きつづけている訳でして...。
"そう感じられる"...これは全く根本的なことではないでしょうか?..."何かいいことを、幸せなことを思おう"...そう感じなきゃ、そう思えないんじゃないでしょうか?...私、アホなこと言っているのでしょうか?
これ、全く今、感じたことを言っているまでです。幸せなことを思っている、ということはそう感じているのです。
そこには、頭を切り替えるとか、思い方を変えるといった、段構えがありません。即応しているのです。
愛、平安、幸福というものは、抽象的に思い描かれるようなことじゃなく、具体的に感じられるものなのです。
そういうものと共にある、これがすべて、と言っても過言ではありません。
この思いを超えたもの、神的なものを"現臨(プレゼンス)"と呼んでいるのです。
私はしかし、このものを四六時中感じている訳じゃありません。そうなったら、多分、悟った人か、生き仏になれるかもですが、当然のことながら、ドラマやスポーツ観戦やHなことに夢中になっていたり、トラブってる時とかには、お留守になっていることもあるのです。
それで、そうなっていることに気付いてみると...お留守になっているので、"ウンウン"と現臨を召喚すべく念じたり...なんかはしてられませんi
そう気付いたら、そのものにあるということに気付く、そう感じてくる...ややこしい言い方ですが、現臨にないことに気付くことは、それに在ることに気付くことなのです。やはり即そうなるということ...気付けるということは、全く大きいことだi
要するに、意識さえしていたら、そうなるということです。
即そうなるということは、これはもう、こちらの状態如何に拘わらず、このものは常住しているということなのでしょう。
いや、こりゃ生き仏になる日も近いかもしれない?...すべてはあの御方の思し召し次第です。
こういうことがあらゆる人に通用するとは勿論思えませんし、こういう生き方を奨励するなどおこがましいことです。
それでも私は呼び名は何であれ、このものがすべての人に現れることを願っているのです。
私ではない、あの御方の方が...
あたかも太陽の光のように...常住のものとはそういうもののことでしょう。

コメント
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