人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超越的なもの

2021-09-20 09:53:07 | 哲学・思想
神などの霊的な存在と関わることは、自分以外に別材したものに依存してしまうように感じている人も多いだろうと思います。
超越的なものとは、そのように理解されているようです。
これが宗教的なものとの関わりに抵抗感をもたらしている要因の一つとなっているのでしょう。
しかし、私が主として現臨と言い表しているものと関わる時、自己そのものと切り離されるようには感じられないのです。
この場合の自己とは、思われたままの自己、諸々の思いに閉じ込められた自己のことでないのは言うまでもありません。
通常思われている自己とは、このように限界内に存在しているのです。
と、このように言うならば、そこに超越するものがある、そのように開かれるものが示唆されていることが感じられてくるでしょう。
限界があるということは、それを超えるものを予感させずにおれないのです。
ブッダは、神とか霊的存在のことには言及しませんでした。
しかし、それは予めそのような存在を実体あるものとして、信ずべき対象として、外的権威となるものとして設えることに対して、そうした定見から自由になることを目的にして説かれたものではなかったでしょうか?
権威に結び付いた定見、固定観念こそは、人間を思念のうちに閉じ込めるものの最たるものでしょう。
宗教、スピ界隈には精神を、ひいては人間存在そのものを呪縛するもので溢れかえっている様は、古代インドの昔も今も変わらないのではないかi
自己を超えるとは、ひっきょう思いを超えることに他ならないのです。
そして、超越的なものとは、存在論、実体論として説くことは出来ないのです。勿論、そのように説いている向きは沢山ありますよ。
しかし、それはある一定の理解に導くことはあれ、そのような教説に安易に迎合し、信従、追従してしまうならば、自己実存はいつまで経っても開かれることは無いでしょう。
自己と信じ、従うべき対象との二元性が克服されない限りは...
しかし、思念に閉ざされた自己のみからは、その道は開かれるものではありません。
自己を超えたものによらなければ...それはあるいは、内なる自己の深みから来るのかもしれません。いや、それは神、守護の神霊なのか?
考えてしまう...だ、だから考えているうちは、何か実体あるものとして捉えようとしている限り、直にそのものと一如のものとはなってこないのです。
そして、超越的なものに捉えられてしまえば、それが何かなどという詮索などどうでもよくなってしまうのです。
そして又、超越的なものにあって、私は思われた私でなくなって、ますます私そのものになってゆく...
"超越的なものと実存的なものは切り離されるものではないi"
超越的なものとはどういうものなのか?...超越するとはどういうことなのか?
祈りをもって、改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか?
"祈りをもって"...考えるだけなら、考えるだけで終わるでしょう。
祈るということは、超越的なものを呼び覚ますことに他ならないのです。
コメント
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