人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨というゾーン

2021-09-18 10:16:47 | 現臨、ハタラキ
"現臨にある"、ということは感覚としては、そういうゾーンに入ったようなこと、何か見えないバリアに包まれるようなことを言っているのです。
そういう意識状態にあるということなのですが、そこで諸々の思いから離れられる、超えられるということがある訳です。
従って、今、悪い、乱れた、ダメな心の状態にある(そう思っている)として、思いを良い(と思っている)方に変えようとしたり、そういう思い自体を出さないようにしようと、私なんかは一度たりとも出来たためしのないことを、出来る人はともかくやろうとする必要は無いのです。
いつも言っていることですが、これが中々"思いを変えなければならない、変わるように努力しなければならない"、と思い込むことがサガになっているのか、理解されないようでして...そして、変わらなかったら...あるいは、変わったとして、又ダメな自分に舞い戻って、更なる自分を追い込むような思いに苛まれたりして...私はさんざんそういう思いをして来ているのです。
だから...思いから離れること、超えるということがどういうことかが分かる...というか、意識が自然とそうさせるものに動いてゆく、向けられてしまうのです。
"あのゾーンに入ればラクに、幸せになれるんだi"
これは、もう本当に人生は怪物じみた、神的なものと共にある、というような驚くべきことなのですi
見えないゾーンに入る、というかそのものが臨んでくる訳ですが、そのバリアに包まれているような感覚というのは、ある面では、外的な所与の世界からの影響が遮断されるようなことでもあり、又別の面では、その自分と客観的世界とを隔てている障壁が希薄になることでもあります。
内なる世界と外なる世界と言ったりしますが(以前は肉体という壁を軸にして考えられたりしたものでしたが、実際にはアヤフヤに感じます)、具体的に感じるところから言えば、現臨にあるものが前者、その外にあるものが後者と言ってもいいでしょう。
外なるものには、リアリティが感じられません。これは現実に臨んでいないということでしょう。
コ難しいことはともかく、要するに、古今東西のすべての宗教、精神世界の道において、神、ダンマ、聖霊...呼び名はともかく、"これ"に触れないものは皆無と言っても過言ではないのです。
これに与らんがための信仰とか修行の道というものは勿論ありますよ。
そこには一定の努力というものも多分あるのでしょう。多分?
私は?...努力したという自覚は無いが、さっきの通り苦しんだことはありますが、多分...フツーじゃない歩み方をしているのかもしれないという自覚はあります。
物心付いた頃から怪物じみたものと共にあった、という気がしてなりません。
それが、得たいの知れない不気味なものから、いつしか愛、平安をもたらすものに変わったようなのです。
コメント
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