人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

いつものようで、いつものようでない説明

2022-05-01 10:55:41 | 現臨、ハタラキ
現臨にあることというのは、とても感覚的なことなので言い表すことが難しいのです。
そも現臨とは何ぞや?...その実体は分かりません。
仮にそれは心霊学などで言われる何かの霊的存在として説明されたとして、それで一応は頭では納得することは出来ても、現臨にあることがどういうことかは理解出来ません。
これは、科学的には勿論、哲学的にいくら論理を持って説明されても同じことが言えます。それは、実存というものの説明と同様でしょう。
そこで、一つ言えることは、現臨と実存とは切り離せないということです。
つまりは、自分自身で実感してもらうしかないということなのです。一般論とかで、現臨、実存のことが分かったという程、ナンセンスなものはありません!
実感...リアリティ...言い慣わされている言葉ですが、これも上と同様のものですね。
考えている私が居て、客観に実体あるものがある...ここからリアリティというものが生まれるでしょうか?
それは正にそれを感じている私、私の実存から来るのではないでしょうか?
しかし、その実存感覚というものは、その一コの、固定された私から来るのでもありません。(自分自身で試してみて下さい)
その実存感覚にある時、私はその一コの私から超えられていることに気付くはずです。
それと同時に、私の内なるものも開かれてゆく感じももたらされます。
そしてこの時、外へと超え出てゆくものと、内なるものとを隔てる物資的肉体の壁のようなものが希薄になっているのが感じられます。
現臨感覚というものを敢えて描写すれば、こういう風になるでしょうか?
でも、現実にはこういう説明ごとは、どっかに飛んで行ってしまうのですが...
飛んでしまうとは、思考が後退してしまうことを意味しています。
そうさせるハタラキ、力学的なものということです。
時に、思考機能がそこから失ってしまう状態になることもありますが、いつそうなるかは分かりません。
それは、覚醒とか一瞥体験と結びつけられたりしますが、私の経験では、それにはこの現臨感覚が伴うのは確かなことです。
力学的なものと言いましたが、これもそうした説明で満足したり出来るものではありません。
愛、平安がもたらされるのをどう説明したらいいのでしょう?
愛、平安がある...即ちそれが、現臨にある、ということを言い尽くしているのでしょう!
それは、もう神的なものなのだ!...だから言い表すことが出来ない!(神も、先の霊なるものも、本当は実体あるものとして説明など出来ないでしょう!)
...って、分かりやすく説明しようとして、いつもこうなってしまうのです。
これは、段々私の実存に現臨して来るのを、ライブ感覚で説明しているに他ならないのです!
これが正に現実に臨むものでなくて何であろうか?!
                
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする