宗教、スピ、哲学...精神の道には、数多の教えがあり、そのいずれに共感、信従するかは人それぞれでしょうが、果たしてどれだけのものが役に立っているのでしょうか?
役に立つとはこの場合、この世的な実益的なことではなくて、我々の精神の深みへと導くものであり、当然のことながらその世界にも生き得るものという意味です。
そもそもがそれらの道とは、そういう世界を目指すものであり、教えとはその要求を満たすものでなければならないものでしょう。
勿論、そこにはそれに関わる、我々の精神的姿勢に依るところが大きいのは言うまでもありませんが...
何らの確証も無い単なるオカルト的興味ばかりを掻き立てるもの、ただ字面を追うだけの、表層的理解に留まるもの、例えば”元々人は神と一つのもの“、といった深遠そうな教説でも、頭で分かったつもりになっていても何にもならないでしょう。
このようなことは、もはや考えることが出来ない、信じることも疑うことも出来ない、思考機能が失ってしまったような契機にあって、おのずと示されるでしょう。(それを“分かる”という風には言えないというニュアンスは、この理由で伝わるでしょうか?)
これが先に精神の深みと言った領域に他ならないのです!
そこには、数多の教えみたいなものは何も感じられません。如何に我々は諸々の有りもしない、”役に立たない“空想ごとに囚われていたか、ということが示されるばかりなのです。
現前するものは、一つですべてのものしか無いかのように感じられるばかりです。
それは何か?...言える訳無かろう!
ただ、こういう風には言えるでしょう。それは数多の教えの言葉、その語感だけからは伝わらないが、その言葉が指し示すもの、あるいはそれが根ざしているものは伝わってくる...要するに言葉を超えたものは、“直に”伝わってくるのです!
それは、“あっちではこう言っている、こっちではああ言っている”、なんて感じられる訳ないでしょ!、感じてみられよ!
そう、感じられるのです!...頭脳知で追うことは出来ませんが...
どうして感じられるのか?...天来の叡智のようなもの(これは、言うまでもなく、頭脳知のことではありません)に与り、あるいは内在していたそれが呼び起こされるからです。
いや、それだけじゃない!...多分、“数多の教えのようなもの”に接して来たからでしょう。
そこで精錬され、濾過され生きている、表されざる言葉とそれらが一つになって、あたかも“書かれざる経典”みたいなものを読まされている如くなのです。
しかし、このようなことは、精神の深みになければ、与り知れないのかと言ったら、そんなこたありません!
誰しもが経験していることじゃありませんか?
魂が揺さぶられるような共感、天来の叡智...しかし、あの契機にあって、それらのどれが書かれざる経典に含まれるものかは分からないのです。
要はどれだけそれが精神の深み、即ち意識次元に根ざしたものか、ということに関わるのでしょう。
意識に根ざしたものにするには、知性ばかりでなく、おそらくそれ以上に感性が必要でしょう。
精神の深みにおいては、知的なことと感覚的なことは切り離せないものなのです。
感性と切り離された知性は、それ自体知的でないとも言えるでしょう。(知性的でない私が言うのもなんですが...)
テンでバラバラの数多の教えで溢れかえっている、精神精神の現状が物語っているように...
役に立つとはこの場合、この世的な実益的なことではなくて、我々の精神の深みへと導くものであり、当然のことながらその世界にも生き得るものという意味です。
そもそもがそれらの道とは、そういう世界を目指すものであり、教えとはその要求を満たすものでなければならないものでしょう。
勿論、そこにはそれに関わる、我々の精神的姿勢に依るところが大きいのは言うまでもありませんが...
何らの確証も無い単なるオカルト的興味ばかりを掻き立てるもの、ただ字面を追うだけの、表層的理解に留まるもの、例えば”元々人は神と一つのもの“、といった深遠そうな教説でも、頭で分かったつもりになっていても何にもならないでしょう。
このようなことは、もはや考えることが出来ない、信じることも疑うことも出来ない、思考機能が失ってしまったような契機にあって、おのずと示されるでしょう。(それを“分かる”という風には言えないというニュアンスは、この理由で伝わるでしょうか?)
これが先に精神の深みと言った領域に他ならないのです!
そこには、数多の教えみたいなものは何も感じられません。如何に我々は諸々の有りもしない、”役に立たない“空想ごとに囚われていたか、ということが示されるばかりなのです。
現前するものは、一つですべてのものしか無いかのように感じられるばかりです。
それは何か?...言える訳無かろう!
ただ、こういう風には言えるでしょう。それは数多の教えの言葉、その語感だけからは伝わらないが、その言葉が指し示すもの、あるいはそれが根ざしているものは伝わってくる...要するに言葉を超えたものは、“直に”伝わってくるのです!
それは、“あっちではこう言っている、こっちではああ言っている”、なんて感じられる訳ないでしょ!、感じてみられよ!
そう、感じられるのです!...頭脳知で追うことは出来ませんが...
どうして感じられるのか?...天来の叡智のようなもの(これは、言うまでもなく、頭脳知のことではありません)に与り、あるいは内在していたそれが呼び起こされるからです。
いや、それだけじゃない!...多分、“数多の教えのようなもの”に接して来たからでしょう。
そこで精錬され、濾過され生きている、表されざる言葉とそれらが一つになって、あたかも“書かれざる経典”みたいなものを読まされている如くなのです。
しかし、このようなことは、精神の深みになければ、与り知れないのかと言ったら、そんなこたありません!
誰しもが経験していることじゃありませんか?
魂が揺さぶられるような共感、天来の叡智...しかし、あの契機にあって、それらのどれが書かれざる経典に含まれるものかは分からないのです。
要はどれだけそれが精神の深み、即ち意識次元に根ざしたものか、ということに関わるのでしょう。
意識に根ざしたものにするには、知性ばかりでなく、おそらくそれ以上に感性が必要でしょう。
精神の深みにおいては、知的なことと感覚的なことは切り離せないものなのです。
感性と切り離された知性は、それ自体知的でないとも言えるでしょう。(知性的でない私が言うのもなんですが...)
テンでバラバラの数多の教えで溢れかえっている、精神精神の現状が物語っているように...