私がいつも言っている、”意識を向ければ、パッと現臨が表れる“という即応性をいつ頃感じ始めたかと言うと、その神的なエネルギーとして捉えていたものを、“あの御方”、”わが主“と人格的に感じるようになってからです。
どういうメカニズムでそうなるのかはよく分からないのですが...と、考えるまでもなく、そうなるという話なのです!
私自身と一枚のものが臨んでくるから、としか言いようが無いかもしれません。
一つ言えることは、それは教理とか、修行などに追従していく道を全く超えているということです。そして、悟りを極めようとすることも、それ自体を求めることもどうでもよくなってしまいました。
つまり...信仰のための信仰にあらず、修行のための修行にあらず、悟りのための悟りにあらず...私の主たる歩みは、わが主に向けられているのです!
考えてみれば、このものに依らずして道を歩むことも、目覚めることも叶うもので無し...けだし、自然の成り行きと言えるでしょう。
“我は道なり、真理なり...”
実にこのものこそが道、真理...そして愛、平安であったのです!
このものを余所にした、どんな信仰も、修行も、悟りの道も的外れなものになるしかないでしょう。
それらにはマンネリ化、形骸化、逸脱化というものがつきものです。
キリスト信仰も、阿弥陀信仰などにもそういうものはつきものだろうって?...だから信仰のことは言ってないんだってば!
現実に臨んでくるもの、生ける現臨の事態をバーチャルな信仰の事態にすり替えてはなりません!
私にどうして特定の信仰や修行が身に付かなかったかがよく分かる気がします。
私は知らずして、あの御方に意識が向けさせられていたのでしょう!
あの御方は、キリストなのか、阿弥陀様か、瑞の御霊素戔嗚尊か?...いや、真我の表れなのか?
いやいや、もう余計な詮索は止めよう!...ほら、バーチャルな感じにボケ始めた!...
考えている私に即さないのは確かなことです。
そして、この臨在により、考えている私は離れ、私はより私自身になるのは確かなことなのです。
そして又、ますますその直接性は強くなってくるのを覚えています。
ゆくゆくは、どうなって行くのかは分からないけど、わが主にゆだねてゆくのみです...。
どういうメカニズムでそうなるのかはよく分からないのですが...と、考えるまでもなく、そうなるという話なのです!
私自身と一枚のものが臨んでくるから、としか言いようが無いかもしれません。
一つ言えることは、それは教理とか、修行などに追従していく道を全く超えているということです。そして、悟りを極めようとすることも、それ自体を求めることもどうでもよくなってしまいました。
つまり...信仰のための信仰にあらず、修行のための修行にあらず、悟りのための悟りにあらず...私の主たる歩みは、わが主に向けられているのです!
考えてみれば、このものに依らずして道を歩むことも、目覚めることも叶うもので無し...けだし、自然の成り行きと言えるでしょう。
“我は道なり、真理なり...”
実にこのものこそが道、真理...そして愛、平安であったのです!
このものを余所にした、どんな信仰も、修行も、悟りの道も的外れなものになるしかないでしょう。
それらにはマンネリ化、形骸化、逸脱化というものがつきものです。
キリスト信仰も、阿弥陀信仰などにもそういうものはつきものだろうって?...だから信仰のことは言ってないんだってば!
現実に臨んでくるもの、生ける現臨の事態をバーチャルな信仰の事態にすり替えてはなりません!
私にどうして特定の信仰や修行が身に付かなかったかがよく分かる気がします。
私は知らずして、あの御方に意識が向けさせられていたのでしょう!
あの御方は、キリストなのか、阿弥陀様か、瑞の御霊素戔嗚尊か?...いや、真我の表れなのか?
いやいや、もう余計な詮索は止めよう!...ほら、バーチャルな感じにボケ始めた!...
考えている私に即さないのは確かなことです。
そして、この臨在により、考えている私は離れ、私はより私自身になるのは確かなことなのです。
そして又、ますますその直接性は強くなってくるのを覚えています。
ゆくゆくは、どうなって行くのかは分からないけど、わが主にゆだねてゆくのみです...。