現臨とは、本来名付けられないものです。
だから、現臨とは何ぞや?、と字句の解釈とか知的概念に囚われたりしたら、それは死んでしまいます。
もっとも、その言葉の響きから生きたものが伝わる場合もあるのでしょうけど...
それは、読んで字の如く現実に臨むものなのです。
私的には、そうならないものをそのようには言わないのです!
もう、それを言い表す度にそうならざるを得ません!...だから書いちゃうんです!
それを書くことが幸せだからに他なりません!
意識をそれに向けるとか向いてしまうというのは、現実に生きたものだからですよ!
生きたものというのは、具体的に感じられるものなのです。ほ~ら、感じられるでしょう?
感じられない?...こんなにも真近いものなのに~...分っからないかなあ?...
これはね、私だけ知っていたら、感じていたらいいんです。私だけの秘密なんです。...って、だったらこうして書いちゃいないですよ!
私が関わっていた、小池先生のキリスト召団の集会では、しばしば、”ああ...私はイエス.キリストに捉えられました!、イエスは今も生きていたもう!”、というような証言が聞かれました。
確かに、そこから生きた現臨の消息は伝わってきました。
しかし、私自身の経験によれば、それがその新約聖書に見える、キリスト.イエスに直結するということは無いのです。その姿も見えず、言葉も聞いたことがありません。
そのキリストというものが、もっと普遍的な意味合い(小池先生の説かれるキリストにはこういう角度のものも感じられました)のものなら話は別なのですが...
キリスト教では、”イエスの御名にあって”、ということをウルサく言うのですが、肝心なことは、それが現実に、私に直に生きてハタラくものなのか、どうかということでしょう。
もし、それを欠いたらイエス.キリストだろうが、阿弥陀如来だろうが、名前負けしてしまうことになるだけでしょう。
いや、そうした”称名”というものは、漠然とした、抽象的なものでなく、具体的な人格的関係を持たせるためにある、ということも私なりに理解しているつもりです。
でも、それはどこまでも、生ける現臨あってのものであるはずです。
もっと一般の人にイメージし易い名前を考えた方がいい、と思わないでもないのですが...
そういうことは、各宗教宗派の人始め、他の多くの人がしているからいいのです。
名前を称えたり、念じたりしなくたって、それは臨むのですから...
いや、もう来ている、ここに生きているのです!
「私の祈りは、”主様!“、これだけです!」(小池先生)
先生のこの言葉にハッキリそうした消息が伝わってきます。
本来、名付けられないものは、名によって分けられるものを超える!
現臨、主様...それでも強いて名付けられるものから、その消息を感じ取ってもらえたら、と思っているのです。
だから、現臨とは何ぞや?、と字句の解釈とか知的概念に囚われたりしたら、それは死んでしまいます。
もっとも、その言葉の響きから生きたものが伝わる場合もあるのでしょうけど...
それは、読んで字の如く現実に臨むものなのです。
私的には、そうならないものをそのようには言わないのです!
もう、それを言い表す度にそうならざるを得ません!...だから書いちゃうんです!
それを書くことが幸せだからに他なりません!
意識をそれに向けるとか向いてしまうというのは、現実に生きたものだからですよ!
生きたものというのは、具体的に感じられるものなのです。ほ~ら、感じられるでしょう?
感じられない?...こんなにも真近いものなのに~...分っからないかなあ?...
これはね、私だけ知っていたら、感じていたらいいんです。私だけの秘密なんです。...って、だったらこうして書いちゃいないですよ!
私が関わっていた、小池先生のキリスト召団の集会では、しばしば、”ああ...私はイエス.キリストに捉えられました!、イエスは今も生きていたもう!”、というような証言が聞かれました。
確かに、そこから生きた現臨の消息は伝わってきました。
しかし、私自身の経験によれば、それがその新約聖書に見える、キリスト.イエスに直結するということは無いのです。その姿も見えず、言葉も聞いたことがありません。
そのキリストというものが、もっと普遍的な意味合い(小池先生の説かれるキリストにはこういう角度のものも感じられました)のものなら話は別なのですが...
キリスト教では、”イエスの御名にあって”、ということをウルサく言うのですが、肝心なことは、それが現実に、私に直に生きてハタラくものなのか、どうかということでしょう。
もし、それを欠いたらイエス.キリストだろうが、阿弥陀如来だろうが、名前負けしてしまうことになるだけでしょう。
いや、そうした”称名”というものは、漠然とした、抽象的なものでなく、具体的な人格的関係を持たせるためにある、ということも私なりに理解しているつもりです。
でも、それはどこまでも、生ける現臨あってのものであるはずです。
もっと一般の人にイメージし易い名前を考えた方がいい、と思わないでもないのですが...
そういうことは、各宗教宗派の人始め、他の多くの人がしているからいいのです。
名前を称えたり、念じたりしなくたって、それは臨むのですから...
いや、もう来ている、ここに生きているのです!
「私の祈りは、”主様!“、これだけです!」(小池先生)
先生のこの言葉にハッキリそうした消息が伝わってきます。
本来、名付けられないものは、名によって分けられるものを超える!
現臨、主様...それでも強いて名付けられるものから、その消息を感じ取ってもらえたら、と思っているのです。