例によって今、現臨にある状態にあって書いています。
言うまでもなく、多くそうでない状態もあるということなのですが、リアルな私の生というのは、こういう状態のようにも感じています。
リアルに感じる...これが現臨感に他ならないのです。
この世の時間に合わせてその状態が五分くらいだとし、後のほとんどをどうでもいい時間を過ごしたとしても、私はその日、リアルな時間を過ごしていたのです。
それを相対的な時間で捉えることは出来ません。これを実存的時間と言ってもいいでしょう。
瞑想などの修行をしている時をそのように言ったりもしますが、そうとは限りません。
そこに、“あの御方”が臨むとは限らないからです。
瞑想の諸々の技法や、修行者の努力などがその状態をもたらす訳ではないのです。
ただ、瞑想が深まって、そういう意志的な力を超えた状態は、”それにある“とは言えるでしょう。
こう言うと、その状態とそうでない状態があるように感じられるかもしれませんが、それこそが相対的時間に囚われてしまうということなのでしょう?
現臨というものが感じられない時、そのものはどっかにお留守になっているかというと、そんなことは無い!、ある訳無い!
そうなったら、多分私自身居なくなってしまうでしょう。
そのものは、諸々の表層の思いに隠れているだけなのです。思いは来ては去って、変転してゆく...
現臨こそは常住のものなのです。
現臨にある時、過去と現在を距てるものは感じられません。
過去を思い起こすと、過去の自分はまだ未熟で、年月を経て段々成長してきたようにも思えます。
しかし、未熟だったのも確かですが、そうした思念による記憶とは別の、”身に覚えている記憶”に照らしてみれば、そこに何の違いもないようにも感じられます。あの時も今も現臨にあったから!
身に覚えている記憶は、意識に根付いているもの...それが現臨にある状態に他なりません。
少なくとも私には、それが自覚的で無かったのは勿論ですが、物心付いた時から身に覚えのあるものを感じています。
それを考えると、一体私の何が大きくなり、何が成長するのか、テンでに分からなくなりそうですが、段々そのものが顕わに、私と一つになってくるのが自覚されて来ている、ということは言えるでしょう...。
言うまでもなく、多くそうでない状態もあるということなのですが、リアルな私の生というのは、こういう状態のようにも感じています。
リアルに感じる...これが現臨感に他ならないのです。
この世の時間に合わせてその状態が五分くらいだとし、後のほとんどをどうでもいい時間を過ごしたとしても、私はその日、リアルな時間を過ごしていたのです。
それを相対的な時間で捉えることは出来ません。これを実存的時間と言ってもいいでしょう。
瞑想などの修行をしている時をそのように言ったりもしますが、そうとは限りません。
そこに、“あの御方”が臨むとは限らないからです。
瞑想の諸々の技法や、修行者の努力などがその状態をもたらす訳ではないのです。
ただ、瞑想が深まって、そういう意志的な力を超えた状態は、”それにある“とは言えるでしょう。
こう言うと、その状態とそうでない状態があるように感じられるかもしれませんが、それこそが相対的時間に囚われてしまうということなのでしょう?
現臨というものが感じられない時、そのものはどっかにお留守になっているかというと、そんなことは無い!、ある訳無い!
そうなったら、多分私自身居なくなってしまうでしょう。
そのものは、諸々の表層の思いに隠れているだけなのです。思いは来ては去って、変転してゆく...
現臨こそは常住のものなのです。
現臨にある時、過去と現在を距てるものは感じられません。
過去を思い起こすと、過去の自分はまだ未熟で、年月を経て段々成長してきたようにも思えます。
しかし、未熟だったのも確かですが、そうした思念による記憶とは別の、”身に覚えている記憶”に照らしてみれば、そこに何の違いもないようにも感じられます。あの時も今も現臨にあったから!
身に覚えている記憶は、意識に根付いているもの...それが現臨にある状態に他なりません。
少なくとも私には、それが自覚的で無かったのは勿論ですが、物心付いた時から身に覚えのあるものを感じています。
それを考えると、一体私の何が大きくなり、何が成長するのか、テンでに分からなくなりそうですが、段々そのものが顕わに、私と一つになってくるのが自覚されて来ている、ということは言えるでしょう...。