「座禅は習禅にあらず、安楽の法門なり」(道元禅師)
座禅でも瞑想でも日夜修行に勤しんでいる方、修行は楽しいですか?
え?、足のシビレと闘っている?...睡魔が襲ってくる、雑念が止まない...正しいやり方で出来ているのかどうか迷っている...
でも、そこに平安、至福があるという、悟りの境地を目指しているのだから、修行に励まないとならない?
だから、どんどん修行を深めて行って、段々その境地に近づいて行く?
しかし、その座る道において知らぬ人は居ないであろう、道元禅師は“座禅は習禅にあらず“、と言っているのです!
私は門外漢なので軽々しいことは言えませんが、長年、自分が勤しむ何かによって、段々悟りとか高い境地が開かれて行くんだ、という思いに支配されていたのは、同じだと思うのです。
実際に取り組んだということは、ほとんど無かったですが、“精神世界“のことがブームとなり、様々な教え、メソッドが紹介され、それらに目が奪われたりしたこともありました。
何てこたあない、私にはそういうものに取り組む気根が無いように感じてならなかっただけなんですけど...別のものも既に感じていたのです。
何らの修行らしきことをしていなくとも、歓喜、平安に包まれてしまうことがあるということを!
いつもそうなる訳じゃないですが、ある本を読んでいるだけでそうなる...随喜の涙がこぼれる!
これから、あるやり方を習得しようという気持ちになりません。
ただ、そのまま感じていたい、安んじていたい!...これが正に現臨にある状態に他ならないのです!
何もする気が起きません。そのまま...座り続けるのなら、そのまま、ひたすら座るのみ...只管打座。おそらくは、菩提樹の下でブッダが”入られていた“のは、かかる禅だったのでしょう。
道元禅師が“安楽の法門“と言ったものは、形は違いますが、この消息を伝えたものではないでしょうか?
しかし、その状態が過ぎ去った時、“あれは一時的な精神の高揚した状態なんだから、ちゃんとした道に則らなかったらダメなんだ!”、なんて、そういうどっかにありそうな道らしきものを探し求めたりして...一時も二時も無い!、思いを超えたところからでなければ、どこにも道など開かれないですよ!
何かのやり方を習ったってそうはなりません!...法~形なき命に触れなければ...形は何であれ、法を伝えるものこそが法門なのでしょう。伝わるものがあれば、形はあっても無くてもいい...法にあって、平安、安楽でない訳が無い!
これから先の、得られるかどうか分からないものを求めるのではありません!
今、自分自身の現実に臨むものを求める!...
”きたきた~“...楽しくなってきやしませんか?!
座禅でも瞑想でも日夜修行に勤しんでいる方、修行は楽しいですか?
え?、足のシビレと闘っている?...睡魔が襲ってくる、雑念が止まない...正しいやり方で出来ているのかどうか迷っている...
でも、そこに平安、至福があるという、悟りの境地を目指しているのだから、修行に励まないとならない?
だから、どんどん修行を深めて行って、段々その境地に近づいて行く?
しかし、その座る道において知らぬ人は居ないであろう、道元禅師は“座禅は習禅にあらず“、と言っているのです!
私は門外漢なので軽々しいことは言えませんが、長年、自分が勤しむ何かによって、段々悟りとか高い境地が開かれて行くんだ、という思いに支配されていたのは、同じだと思うのです。
実際に取り組んだということは、ほとんど無かったですが、“精神世界“のことがブームとなり、様々な教え、メソッドが紹介され、それらに目が奪われたりしたこともありました。
何てこたあない、私にはそういうものに取り組む気根が無いように感じてならなかっただけなんですけど...別のものも既に感じていたのです。
何らの修行らしきことをしていなくとも、歓喜、平安に包まれてしまうことがあるということを!
いつもそうなる訳じゃないですが、ある本を読んでいるだけでそうなる...随喜の涙がこぼれる!
これから、あるやり方を習得しようという気持ちになりません。
ただ、そのまま感じていたい、安んじていたい!...これが正に現臨にある状態に他ならないのです!
何もする気が起きません。そのまま...座り続けるのなら、そのまま、ひたすら座るのみ...只管打座。おそらくは、菩提樹の下でブッダが”入られていた“のは、かかる禅だったのでしょう。
道元禅師が“安楽の法門“と言ったものは、形は違いますが、この消息を伝えたものではないでしょうか?
しかし、その状態が過ぎ去った時、“あれは一時的な精神の高揚した状態なんだから、ちゃんとした道に則らなかったらダメなんだ!”、なんて、そういうどっかにありそうな道らしきものを探し求めたりして...一時も二時も無い!、思いを超えたところからでなければ、どこにも道など開かれないですよ!
何かのやり方を習ったってそうはなりません!...法~形なき命に触れなければ...形は何であれ、法を伝えるものこそが法門なのでしょう。伝わるものがあれば、形はあっても無くてもいい...法にあって、平安、安楽でない訳が無い!
これから先の、得られるかどうか分からないものを求めるのではありません!
今、自分自身の現実に臨むものを求める!...
”きたきた~“...楽しくなってきやしませんか?!