多少なりとも精神的な道に関心を持った方なら、思考マインドから離れることが如何に重要なことであるかは分かるでしょう。修行というのはそのためにあると言っても過言でない、というように...
しかし...ネットなどに接してみて、如何にその界隈には、思考マインドの渦が取り巻いているか、ということを感じたことはないでしょうか?
ことに悟り系のスピ関係において...“悟りと覚醒、一瞥体験は違う...”、“誰それはまだ悟っていない、中途のレベル...”、”元々悟っているのだから、何もする必要が無い...“
いや、もう悟った人というのは、ホントにエラいもんだ!、すべての上からだと何でも分かっちゃうんですねえ、人間じゃないみたいですよ!...お陰さまで、ああいう人間になるくらいなら、ああいう渦に巻き込まれるくらいなら、フツーに泣いたり、笑ったり、バカを見たり、人間らしい人生を全うした方がはるかにマシだ、ということを“悟り”ましたよ!
私がそれらに接して、まず感じることは、その思考マインドがどこで超えられるのか、どこにその際があるのか、何がそれを超えせしむるのか、という部分がとても曖昧だ、ということなのです。
だから、完全覚醒、悟りの究極の境地(こういう如何にもエゴをくすぐるものを作り出したのは、一体何ものなんでしょうね?)というものがあるとして、中途の段階を超えてその境地へと目指すものは、その主体が何なのかが分からなくなってしまうのです。何がどうやって何を目指そうというのか?
思考レベルは、とっくに超えたのでは無いのか?、為そうとする意志のレベルも!
超えたのなら、思うことも、為すことも何も無いのでしょう?
要するに、その超える、超えせしむる主体がはっきりしていないということに尽きるのです!
”だから、元々悟っているのだから、何もしないでいいんですよ~“、って、そうじゃないでしょ!
それは、そう思っている、信じているあなたじゃなくて、そうなっている別のあなた、もしくは御方が言うことなのです。
つまり、レベルがなんだかんだじゃない、レベチなるこのもの無くして、どうともなりゃしないのです!
このものの前に私は何ものでも無い!...道を歩むことも、その入り口に立つことも出来ないのです!
そのすべての道の主導となるもの、主体と言っていいでしょう。このことは道の大きな節目にあってはっきりすることでしょう。
思考、為すことはその節目から置いていかなければなりません。
我々はただ意識的になるだけ、否、意識的状態に置かれるだけでしょう。
考える私がそれに参与することは出来ませんが、意識の動きを感じることは出来ます。
それは、どこへ、我々をどこに導こうとしているのか!真の主体者にゆだねるのみ...“ゆだねるしかない!”とは、こういうことを言っているのです!
だから、悟りについての諸々のエラそうなご託宣は黙るしかないのです!
しかし...ネットなどに接してみて、如何にその界隈には、思考マインドの渦が取り巻いているか、ということを感じたことはないでしょうか?
ことに悟り系のスピ関係において...“悟りと覚醒、一瞥体験は違う...”、“誰それはまだ悟っていない、中途のレベル...”、”元々悟っているのだから、何もする必要が無い...“
いや、もう悟った人というのは、ホントにエラいもんだ!、すべての上からだと何でも分かっちゃうんですねえ、人間じゃないみたいですよ!...お陰さまで、ああいう人間になるくらいなら、ああいう渦に巻き込まれるくらいなら、フツーに泣いたり、笑ったり、バカを見たり、人間らしい人生を全うした方がはるかにマシだ、ということを“悟り”ましたよ!
私がそれらに接して、まず感じることは、その思考マインドがどこで超えられるのか、どこにその際があるのか、何がそれを超えせしむるのか、という部分がとても曖昧だ、ということなのです。
だから、完全覚醒、悟りの究極の境地(こういう如何にもエゴをくすぐるものを作り出したのは、一体何ものなんでしょうね?)というものがあるとして、中途の段階を超えてその境地へと目指すものは、その主体が何なのかが分からなくなってしまうのです。何がどうやって何を目指そうというのか?
思考レベルは、とっくに超えたのでは無いのか?、為そうとする意志のレベルも!
超えたのなら、思うことも、為すことも何も無いのでしょう?
要するに、その超える、超えせしむる主体がはっきりしていないということに尽きるのです!
”だから、元々悟っているのだから、何もしないでいいんですよ~“、って、そうじゃないでしょ!
それは、そう思っている、信じているあなたじゃなくて、そうなっている別のあなた、もしくは御方が言うことなのです。
つまり、レベルがなんだかんだじゃない、レベチなるこのもの無くして、どうともなりゃしないのです!
このものの前に私は何ものでも無い!...道を歩むことも、その入り口に立つことも出来ないのです!
そのすべての道の主導となるもの、主体と言っていいでしょう。このことは道の大きな節目にあってはっきりすることでしょう。
思考、為すことはその節目から置いていかなければなりません。
我々はただ意識的になるだけ、否、意識的状態に置かれるだけでしょう。
考える私がそれに参与することは出来ませんが、意識の動きを感じることは出来ます。
それは、どこへ、我々をどこに導こうとしているのか!真の主体者にゆだねるのみ...“ゆだねるしかない!”とは、こういうことを言っているのです!
だから、悟りについての諸々のエラそうなご託宣は黙るしかないのです!