「心がハートにとどまっていれば、個我は消え去り、真我が現れる」(ラマナ.マハルシ)
精神的な目覚めに与る時、思考マインドが後退し、純粋意識が顕わになるということは、何度か言っています。意識の転換が起こるのです。
このことは全くその通りで、私は長年そのように、それだけであるように理解していたのですが...
だから、再び思考マインドに心が覆われると、又その意識状態になるようにと、色々”思ったり“するのです(笑)
意識がどうとかならんかなあ、と...意識次元のことに囚われていたのです。
しかし、その覚醒の事態には、もう一つハートの目覚めというものがあるはずなのです。少なくとも私の場合は...
このことは、何で理由も無しに涙が止めどもなく溢れてくるのか、説明の付かないことから伺えられるでしょう。
思考的部分に隠れているので、あまり自覚されることは無かったのですが、二つのことは分けることが出来ませんが、本当に実感されたことは、こっちの方だったと言えるでしょう!
これは、思考が飛んでいたのだから、当然のことなのですが...要するに思考に囚われ、ハートにとどまることに意識が向けられなかったということです。
(これは、誤解されることですが、ハートのチャクラのことを言っている訳ではありません。そこに意識を集中しないと、とか囚われちゃうでしょ?)
思考は、もっと高い悟りの段階、もっと覚醒意識状態を定着させねばならない、などと駆り立てられる...そうなっている時、魂はあの愛、平安に安らぐことは無いのです!...これを欠いた悟りなどある訳が無いではないか!
いや、ホンモノ?の、究極?の悟りを追い求めることなどどうでもよい!
愛、平安はどこから来るのか?、その源、最愛のものとの出会い...原点に帰ることで、そういう思いから吹っ切れることが出来ました。そして追い求めても得られない、そのものが恒常的に感じられるようになったのです。
私は、それで真我が実現したのかどうかは分かりません。んなこた、どうでもいいでしょう!
分かっていることは、そう思っているのなら、思いたいヤツがそう思っているというこでしょう?
だけど、真我だろうと偽我だろうと、そう思っている私とは別に、私は在り続けてますよ!
あっちの私がこっちに臨むことで...
精神的な目覚めに与る時、思考マインドが後退し、純粋意識が顕わになるということは、何度か言っています。意識の転換が起こるのです。
このことは全くその通りで、私は長年そのように、それだけであるように理解していたのですが...
だから、再び思考マインドに心が覆われると、又その意識状態になるようにと、色々”思ったり“するのです(笑)
意識がどうとかならんかなあ、と...意識次元のことに囚われていたのです。
しかし、その覚醒の事態には、もう一つハートの目覚めというものがあるはずなのです。少なくとも私の場合は...
このことは、何で理由も無しに涙が止めどもなく溢れてくるのか、説明の付かないことから伺えられるでしょう。
思考的部分に隠れているので、あまり自覚されることは無かったのですが、二つのことは分けることが出来ませんが、本当に実感されたことは、こっちの方だったと言えるでしょう!
これは、思考が飛んでいたのだから、当然のことなのですが...要するに思考に囚われ、ハートにとどまることに意識が向けられなかったということです。
(これは、誤解されることですが、ハートのチャクラのことを言っている訳ではありません。そこに意識を集中しないと、とか囚われちゃうでしょ?)
思考は、もっと高い悟りの段階、もっと覚醒意識状態を定着させねばならない、などと駆り立てられる...そうなっている時、魂はあの愛、平安に安らぐことは無いのです!...これを欠いた悟りなどある訳が無いではないか!
いや、ホンモノ?の、究極?の悟りを追い求めることなどどうでもよい!
愛、平安はどこから来るのか?、その源、最愛のものとの出会い...原点に帰ることで、そういう思いから吹っ切れることが出来ました。そして追い求めても得られない、そのものが恒常的に感じられるようになったのです。
私は、それで真我が実現したのかどうかは分かりません。んなこた、どうでもいいでしょう!
分かっていることは、そう思っているのなら、思いたいヤツがそう思っているというこでしょう?
だけど、真我だろうと偽我だろうと、そう思っている私とは別に、私は在り続けてますよ!
あっちの私がこっちに臨むことで...