現臨というのは、厳密にどういう意味があるというものでなく、主にキリスト教で神の、キリストの、聖霊の現臨という風に説かれているものから借りているのです。
それは霊的なものです。...といって私は、”それはある種の霊体をともなった、守護霊のようなもので...”、というようには説明することは出来ないし、そのつもりもありません。
分からないのですから...分からないから霊的なものなのです。
キリスト教では聖霊というものが父なる神、キリストと三位一体のものとして説かれていますが、各々違うものなのか、同じものなのかよく分かりません。
ただ、それは分けられないものということは伝わってきます。だから”分からない!”
聖霊のことを抽象的な神学に絡めて説かれることはあっても、”それは自然霊でも先祖霊でもない、高級神霊だ”、などと心霊学的に実体論として説かれることはほとんどありません。
神、キリストと不可離なのでオソレ多いからでしょうか?
いや、それよりも自己自身、実存と不可離のものだからだと私は思います。直接そういう表現は使われていなくても、何となくそう伝わって来るものがあります。
私自身に直接関わるものなので、他人行儀な二元的実体論ではそういうものは伝わらないからでしょう。
つまり何だか分からないけど、それを受けると素晴らしいことに与れる、という響きが感じられるのです。
神学の聖霊論などちんぷんかんぷんですが、私は主として手島、小池両先生からそういうものを感じ取らされているのです。
それが神でもキリストでも(クリスチャンはそうは思わないでしょうが...)阿弥陀様でも守護霊でもいい!...上記のことの裏返しみたいですが、説明的なことは何でもいいでしょう。いちいち囚われてなどいられない!
思いを超えた、霊なるものと直接つながることが最重要なことなのです!
そして、それを受け入れ、我が内に浸透することで、私は思い描いていた私ではなく、もっと私そのものになってゆく...実存と切り離されないとはこういうことに他なりません。
もし、キリストが神我、真我というのなら正しく神、キリスト...いや我は?、我無くして何になろうか?...四位一体ではなかろうか?(小池先生もそういうことを言ってました)
この意味で、あまり実体論に囚われなければ、五井先生の”守護霊というのは、神の分霊である自分自身の分かれである”、という説明も肯けるものがあります。
何にしても、父、キリスト、聖霊であっても自己実存と切り離されたものは、生きた、リアルなものとはならないでしょう。
現臨...“現存”でも、“プレゼンス”でも何でもいいですが、こういう響きを感じるままに伝えている次第なのです。
それは霊的なものです。...といって私は、”それはある種の霊体をともなった、守護霊のようなもので...”、というようには説明することは出来ないし、そのつもりもありません。
分からないのですから...分からないから霊的なものなのです。
キリスト教では聖霊というものが父なる神、キリストと三位一体のものとして説かれていますが、各々違うものなのか、同じものなのかよく分かりません。
ただ、それは分けられないものということは伝わってきます。だから”分からない!”
聖霊のことを抽象的な神学に絡めて説かれることはあっても、”それは自然霊でも先祖霊でもない、高級神霊だ”、などと心霊学的に実体論として説かれることはほとんどありません。
神、キリストと不可離なのでオソレ多いからでしょうか?
いや、それよりも自己自身、実存と不可離のものだからだと私は思います。直接そういう表現は使われていなくても、何となくそう伝わって来るものがあります。
私自身に直接関わるものなので、他人行儀な二元的実体論ではそういうものは伝わらないからでしょう。
つまり何だか分からないけど、それを受けると素晴らしいことに与れる、という響きが感じられるのです。
神学の聖霊論などちんぷんかんぷんですが、私は主として手島、小池両先生からそういうものを感じ取らされているのです。
それが神でもキリストでも(クリスチャンはそうは思わないでしょうが...)阿弥陀様でも守護霊でもいい!...上記のことの裏返しみたいですが、説明的なことは何でもいいでしょう。いちいち囚われてなどいられない!
思いを超えた、霊なるものと直接つながることが最重要なことなのです!
そして、それを受け入れ、我が内に浸透することで、私は思い描いていた私ではなく、もっと私そのものになってゆく...実存と切り離されないとはこういうことに他なりません。
もし、キリストが神我、真我というのなら正しく神、キリスト...いや我は?、我無くして何になろうか?...四位一体ではなかろうか?(小池先生もそういうことを言ってました)
この意味で、あまり実体論に囚われなければ、五井先生の”守護霊というのは、神の分霊である自分自身の分かれである”、という説明も肯けるものがあります。
何にしても、父、キリスト、聖霊であっても自己実存と切り離されたものは、生きた、リアルなものとはならないでしょう。
現臨...“現存”でも、“プレゼンス”でも何でもいいですが、こういう響きを感じるままに伝えている次第なのです。