いつも言うように、現臨などとややこしい言葉を使わなくても、普通に神と言ってもいいのです。
だけど、多くの人は神と言っても、居るのか居ないのか分からないと思っているでしょう?
そういう風なニュアンスでは、こうした言葉は出て来ないのです。それは”現存している”、ということを言い表しているのです。
思いを超えた、何か超越したものが現実に臨む...超越したものを、そう、信じる神とか、何か霊的な実体あるものとして、予め与えられた概念として捉えていたらこの消息は伝わって来ません。
ですから、”それは現存しているんだ”、と意志的に信じようとか、信仰、観念の沙汰にしようとしても無意味なのです。
”いや、だから現存しているかどうか分からんじゃん?”、って言われるかもしれませんが、あなたは現存していないのだろうか?
それは、精神的なものを含めた人間存在の実体といったことを問うているのではなく、あなたや私がここに在る、という感覚のことです。これは極めて実存的なことです。
”私はここに在る”、とは、私は現存している、ということに他なりません。
しかし、そう思ったり、感じている、一コのあなただけがそこにポツンと在るような感じがするでしょうか?...肉体的にはそうかもしれませんが、精神的に、意識的にもそう言えるでしょうか?
私の現存、実存は個我には限定出来ないのです。それを超えたものがある...端的にそれは思いを超えたものでしょう。そのもの抜きに私はここに在り得るだろうか?
そのもの共々がここに現存しているのではないでしょうか?!
超越的なものと実存的なものは切り離すことが出来ないのです!
もし、私の実存と切り離された超越神のようなものしか存在しなければ、私は自分の意志を持たず、神の操り人形に過ぎなくなるか、私はその中に溶けて消え去るだけでしょう。
逆の場合は上記したように、私は、限定された個我に閉じ込められるだけ...どちらも実存の喪失とならざるを得ないでしょう。
このように、現臨について触れた場合は、必ず実存的なことに触れているのは言うまでもありません。
そもそも私にこの現臨感が芽生えたのは、意識が飛びそうになり、自分がどっかに消えてゆくような恐怖を覚えた時、”私はここに在る!”、と臨んだものによって救われた、ということが切っ掛けだったのでした。(といっても、実存感覚の方は当初は、あまり自覚はされておらず、しばらく後、一時、実存主義者とも目されることもあった、ベルジャーエフに出会ったことが大きかったのでしたが...)
現臨と実存の関係について、もう一つ重要なことは、それは一人一人に感得されるべきものだ、ということです。そこにこそ本当に実存的な意味がある、と言わねばならないでしょう。
どっかの誰かの実存など知るか!、ってんです!
だから...それはあなたの神に尋ねることが一番なのです!...
だけど、多くの人は神と言っても、居るのか居ないのか分からないと思っているでしょう?
そういう風なニュアンスでは、こうした言葉は出て来ないのです。それは”現存している”、ということを言い表しているのです。
思いを超えた、何か超越したものが現実に臨む...超越したものを、そう、信じる神とか、何か霊的な実体あるものとして、予め与えられた概念として捉えていたらこの消息は伝わって来ません。
ですから、”それは現存しているんだ”、と意志的に信じようとか、信仰、観念の沙汰にしようとしても無意味なのです。
”いや、だから現存しているかどうか分からんじゃん?”、って言われるかもしれませんが、あなたは現存していないのだろうか?
それは、精神的なものを含めた人間存在の実体といったことを問うているのではなく、あなたや私がここに在る、という感覚のことです。これは極めて実存的なことです。
”私はここに在る”、とは、私は現存している、ということに他なりません。
しかし、そう思ったり、感じている、一コのあなただけがそこにポツンと在るような感じがするでしょうか?...肉体的にはそうかもしれませんが、精神的に、意識的にもそう言えるでしょうか?
私の現存、実存は個我には限定出来ないのです。それを超えたものがある...端的にそれは思いを超えたものでしょう。そのもの抜きに私はここに在り得るだろうか?
そのもの共々がここに現存しているのではないでしょうか?!
超越的なものと実存的なものは切り離すことが出来ないのです!
もし、私の実存と切り離された超越神のようなものしか存在しなければ、私は自分の意志を持たず、神の操り人形に過ぎなくなるか、私はその中に溶けて消え去るだけでしょう。
逆の場合は上記したように、私は、限定された個我に閉じ込められるだけ...どちらも実存の喪失とならざるを得ないでしょう。
このように、現臨について触れた場合は、必ず実存的なことに触れているのは言うまでもありません。
そもそも私にこの現臨感が芽生えたのは、意識が飛びそうになり、自分がどっかに消えてゆくような恐怖を覚えた時、”私はここに在る!”、と臨んだものによって救われた、ということが切っ掛けだったのでした。(といっても、実存感覚の方は当初は、あまり自覚はされておらず、しばらく後、一時、実存主義者とも目されることもあった、ベルジャーエフに出会ったことが大きかったのでしたが...)
現臨と実存の関係について、もう一つ重要なことは、それは一人一人に感得されるべきものだ、ということです。そこにこそ本当に実存的な意味がある、と言わねばならないでしょう。
どっかの誰かの実存など知るか!、ってんです!
だから...それはあなたの神に尋ねることが一番なのです!...