私はどんなに狡猾に人の目を誤魔化し、自我意識が強くないように見せかけたりしても、自分自身では分かっているのです。私の目は誤魔化せない!
神の目も!...“そんないつまでも、エゴを出しちゃダメじゃないか!”、な~んて、お咎めなど聞いたことありませんが...そういうのは、誤魔化しを暴こうとする、神のフリした良心みたいなものの声なのです。
“誤魔化すな!”、というのは他を糾弾することみたいですが、そういう何もかも見通したような目も見られているのです。
一つ言えることは、それはどこまでも“私じゃないもの“、ということです。
すべてのなりすまし、フリは見通されている...そこにはどこまでも“ゆるし“があるのではないか?
自分の思いを超えた、神的なものに見られているような感じというのは、ただこちらを、ありのままの自分を照らし出すだけなのです。ありのままということは、そこに善い悪いとかはありません。
しかし、それがどれだけの恩恵をもたらしてくれることか!
自分の”ガ”の思いからは、その自我性に気付くことも出来ないし、歯止めをかけることも出来ないのです。
私を照らし出しているものがある...私は好んで実存という言葉を使っていますが、それもすっかり思いと同化している”ガ”からは、捉えることなど出来るはずもなく、実にこの”おてらし“にあって、写し出されるということなのです。
そして、気付けるということは、留まることが出来るということです。
反省などと言うと、倫理的なことと結びついてしまいますが、ただその“おてらし”を受け入れるというだけのことです。
それは、“エゴをあからさまに出すのは、ヨクないから反省して心を入れ換え、改めなければ!“、という意志的な倫理観から来るのではなく、自ずと抑えられてしまうのです。
何故ならば、心が自然と安んじてしまうからです。そう...そこには、愛、安らぎがある!
この照らすもの、照明と私が呼んでいるものは、いつも言うように現臨感のある側面を言い表しているに他なりません。
自我が強いことは悪いことなのでしょうか?...それは私の宿命、いや人類の宿命と言ってもいいではありませんか?
倫理、それに伴う法的なことも必要であるのは、論を待たないことでしょうが、ただことの善悪にとらわれているだけでは見えてこないものもあります。
それは、愛、平安に与ることが出来ない、ということに尽きるでしょう!
自我がのさばればのさばるほど、それをもたらすもの、神的なものは顕わになってきません。
それに与るには、いやその当体ともいうべき神と一つになるには、自我をひっこめなければならないのです。
だから、“ガ“は出しちゃイケナイ!...なんて言ったって、出るから”ガ“なんでしょう?
だからだから...それをひっこめ、お出ましになる方をお呼びすればいいのです!
神の目も!...“そんないつまでも、エゴを出しちゃダメじゃないか!”、な~んて、お咎めなど聞いたことありませんが...そういうのは、誤魔化しを暴こうとする、神のフリした良心みたいなものの声なのです。
“誤魔化すな!”、というのは他を糾弾することみたいですが、そういう何もかも見通したような目も見られているのです。
一つ言えることは、それはどこまでも“私じゃないもの“、ということです。
すべてのなりすまし、フリは見通されている...そこにはどこまでも“ゆるし“があるのではないか?
自分の思いを超えた、神的なものに見られているような感じというのは、ただこちらを、ありのままの自分を照らし出すだけなのです。ありのままということは、そこに善い悪いとかはありません。
しかし、それがどれだけの恩恵をもたらしてくれることか!
自分の”ガ”の思いからは、その自我性に気付くことも出来ないし、歯止めをかけることも出来ないのです。
私を照らし出しているものがある...私は好んで実存という言葉を使っていますが、それもすっかり思いと同化している”ガ”からは、捉えることなど出来るはずもなく、実にこの”おてらし“にあって、写し出されるということなのです。
そして、気付けるということは、留まることが出来るということです。
反省などと言うと、倫理的なことと結びついてしまいますが、ただその“おてらし”を受け入れるというだけのことです。
それは、“エゴをあからさまに出すのは、ヨクないから反省して心を入れ換え、改めなければ!“、という意志的な倫理観から来るのではなく、自ずと抑えられてしまうのです。
何故ならば、心が自然と安んじてしまうからです。そう...そこには、愛、安らぎがある!
この照らすもの、照明と私が呼んでいるものは、いつも言うように現臨感のある側面を言い表しているに他なりません。
自我が強いことは悪いことなのでしょうか?...それは私の宿命、いや人類の宿命と言ってもいいではありませんか?
倫理、それに伴う法的なことも必要であるのは、論を待たないことでしょうが、ただことの善悪にとらわれているだけでは見えてこないものもあります。
それは、愛、平安に与ることが出来ない、ということに尽きるでしょう!
自我がのさばればのさばるほど、それをもたらすもの、神的なものは顕わになってきません。
それに与るには、いやその当体ともいうべき神と一つになるには、自我をひっこめなければならないのです。
だから、“ガ“は出しちゃイケナイ!...なんて言ったって、出るから”ガ“なんでしょう?
だからだから...それをひっこめ、お出ましになる方をお呼びすればいいのです!