人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

罪の根底にあるもの

2022-10-02 10:42:04 | スピリチュアル
私は、これまでどれだけ人を傷つけて生きて来たか分かりません。
特に今でも心が痛むのは、何の罪の無い人を傷つけたことです。”あんな笑顔のステキないい人を!”
なんて罪なことをしたか、と思います。思い出すのは昭和59年秋のこと、あの時の私は、長い間ノイローゼ気味で、時に心が荒んでいたのです。
でもすぐ後悔しました。後悔出来るということは、本来性というには遠いかもしれないけれど、いつもの心の状態を取り戻せるということです。
しかし、彼女はその後見てないし、合わせる顔も無いが、どうだったかは分かりません。
何をしたかって?...人を恨むような目つきで彼女のことを遠くから睨んだだけですよ。不幸なことに彼女は、その私の呪われた眼差しに気付いてしまい、”何で自分がそういう目で見られなければらないのだろう”、という表情を浮かべていたのでした。
罪と言ったって、私は法を犯すようなことには特に触れておらず(あったとしてもいくらでも誤魔化せるでしょう)、多分何のお咎めも受けずに済んだことでしょう。しかし、このことは私が犯した、忘れ難い罪として記憶されていることなのです。
法を犯さなければいい?...何という茶番だろう!
罪というものは、この世の法によって規定され、裁かれるもの...それでは、いくら定められ、裁かれたって、罪の根本的な解決には至らないでしょう。そして人間社会には隠れた罪で溢れかえることでしょう。
罪の問題は、いつまで経っても的外れなままなのです!
いや、そもそも罪の概念というものは、ユダヤ、キリスト教から来るものでその原義は、”的を外れること”、なのだそうです。
的とは、創世記の楽園追放の伝えから想像出来るように、創造主、その定めたものということらしいです。
神から離反することが罪で、その報いとして何かの罰が与えられるらしい...ごもっともなようでも、私はそれでは的を得たことにはならないと感じてなりません。
”聖書にそう書いてある!、エライ人がそう言っている!”...だから何だ!
この世の法が定めていようと、聖書の神によって定められていようと、それは外から強制されるものであることに変わりは無いではありませんか?
そういうもので本当に心が、意識が動くでしょうか?...本当に心を入れ変える、本来性に帰ることなど出来るでしょうか?
法の、神の目に付かなければいい?
自らの意志でか、神の意志でか人間は、神から離れた。...あるいは、そこに罪の発生の根本的な理由があるのかも分かりません。
だが、それは我々の実存的な問題から切り離されたなら、その根底に横たわる的に当たることは無いでしょう。
神から離れるということは、本来的幸福から離れるということを意味するのではないでしょうか?
それはどこまでも内発的なものであるはずです。
他から獲得されるような幸福は本来的とは言えません。それを追求すること自体、悪いことでも何でもありませんが、他の幸福を奪って自分の幸福にすることは罪でしょう。
いいや、果たしてそれで幸福に与ることが出来るでしょうか?
一時の欲望を満たすことで、快楽は得られるでしょうが...幸福に与ることとそれは区別されるべきでしょう。
そして、利己的な罪に対する報いは、既に受けているのではないでしょうか?...それは、本来的幸福に与ることが出来ない、ということに尽きるでしょう!
神という表現に抵抗がある向きでも、本来的幸福、愛というものは、心の奥に感じられないでしょうか?
我々は、何故感じられなくなってしまったのか?
何という罪な世の中なのだろう...
それでも生きていかなけばならない...
生かされているだけで幸福なのだから...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする