人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己完成でなく

2022-10-01 09:30:48 | 求道、探究
私は、所謂自力修行の道とは縁が無かったと何度も言ってきました。
ということは、修行して自己を完成させようという方には意識が向けられなかったということです。そういう気根が無かったということでもあるのですが...
自己完成という道は、多く究極の悟りを得ることと結び付けられるようです。
究極の悟りに至ると、自分が無くなってしまうとも言われていて、矛盾したところに行き着いてしまうようなのですが、修行の道をとことん究めるというパッションは共通しているように思われます。
自分の思いを無くさなければならない...
七つあるとかいうチャクラを開かなければならない...
あるいは、霊体といったものは、最初から与えられていないので、修行して形成しなければならない(グルジェフの説)...
要するに、自分を無くそうが、別の自分になろうが、自分をどうとかしよう、ということなのでしょう?
これらに携わるってーのは、私にゃもう、超人的努力にしか思われません。
フツー並みの努力すら為し得ないというのに...そんな自分のことなんかどうしようもないでっしゃろ!
そういうこともあってか意識が向けられない、そっちに動いていかないのです。
もう、唯々神的なものの方に動いてしまう...
中には、”神につながるにはまず自己を完成しなければならない”、と言う人も居るでしょう。そうかもしれません。そうでないかも...保障など無いでしょう。途中でおかしくなるかもしれませんし...
もっとも、神に意識が向いても、それでつながるとも言えないようですが...自ずと向いてしまうということは、何かのつながりがあるのかも...しれない!
自己完成しようが、しまいが...自己完成?...どっちでもいい!
自分のことじゃない!...他者のことです!って...他者?、誰だ、そりゃ?...それもどっちでもいい!
自分のことじゃなければ、他者のためってことにはなりません。
自も他も無い!...といって、どっちも無い、どっちのためでもない、ということじゃありません!
切り離すことは出来ないのです。そう、どんなにダメだろうと、私もそこにちゃんとある!
”神的なものにある”、とはそういうことなのです。
私個人をどうこうしなくても、何かが動いている、進んでいる、創造されている!...何かの完成のためだろうか?...それとも?
私は何もしてないし、出来もしないのに、そうしたことに関わっている感じがしてしまうのは何故なのでしょう。
それでいいのか?...多分いいんでしょう。自ずと意識が向いてしまうのだから...

コメント (8)
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