”悪いこと、罪なことをするのは、良心に悖ることです!”
な~んて、言われても日頃、良心ということで意識が向かうのは、”良心的プライス”のことだったりする小市民の私…。
この良心とは、その発露として内なる声と言われたりしますが、果たしてそうなのでしょうか?
良心というものを自分の中のもう一人の罪の告発者、裁き主のように感じている人も、私のみならず居ることでしょう。良心の呵責と言ったりします。
昨日、近くの公園に自転車で行ったら、自転車置き場が埋まっていたので、チョイと歩道に停めたのでした。”な~に、ほんの小一時間のことだ”、と何食わぬ顔して公園を散歩してたら、だだっ広い公園なのに、”歩道に自転車を停めたら通行人の迷惑です。心当たりの人は至急動かして下さい!”、という園内のアナウンスが!...
”な、なぬっ、こんなにうじゃうじゃ人が居るというのに見てたのか?!...う、う、うっ...シカトしよ、うじゃうじゃに紛れてたら分からないって!...し、しかし、どうしたものか、このここに居るすべての人間から裁きの目で見られているような気分...何かに迫られる、重い、苦しい...あ~、分かったよ!、動かしゃいいんだろ!...”
って、いつもこうなってしまう私は悪い人間?、それとも良心的な人間でしょうか?...言えることは、葛藤を抱えることは、決して安くは無いってことです!
この内なる声みたいなものを良心と捉えたりするようですが、多く認識されているものは、純然たる内なるものとは言えないものだと思います。
それは、予め親からであったり、教師から、あるいはどこで知ったのか、どっかの神サマからであったり自分の外からもたらされた倫理道徳観念みたいなものが、意識してか無意識でか心の中に刷り込まされたものじゃないかと思われるのです。
この声に迫られ、責められることは、全く重い、息苦しさを覚えます。これで死ぬ人だって居るのです。
しかし、この内なる声とは、微妙であり、区別するのが難しいもので、もっと優しくある意識状態へと誘うものもあるのです。
それは良心の呵責とは、明らかに受ける感じが違う!...はっきり感じるものは、こちらを責め立てるものじゃないということです。
良心的な重苦しい心情の向こうに、微かにそれを超えて感じられるのは...愛、安らぎの音信...それは私の本来性へと立ち返らせるもののように感じてなりません。
それにより、私の罪なる心は悔い改めに導かれるかも分かりません。
しかし、心の奥からそれを促すものは、道徳観念から来る義務感といったものでは無く、私の本来性に立ち返ったところから、苦さの中に仄かに感じる愛、安らぎの中にあって、自ずから意識が動かされることによるのです。
こういうことは、誰からも教えられたことはありません。
しかし、世の中は、世の中という神は、この天来の声を知らないのです。
多く良心と呼ばれる”法的な声”しか知らない...
すべての裁きが終わらなければ、その天来の声を聞くことは出来ないのでしょうか?
な~んて、言われても日頃、良心ということで意識が向かうのは、”良心的プライス”のことだったりする小市民の私…。
この良心とは、その発露として内なる声と言われたりしますが、果たしてそうなのでしょうか?
良心というものを自分の中のもう一人の罪の告発者、裁き主のように感じている人も、私のみならず居ることでしょう。良心の呵責と言ったりします。
昨日、近くの公園に自転車で行ったら、自転車置き場が埋まっていたので、チョイと歩道に停めたのでした。”な~に、ほんの小一時間のことだ”、と何食わぬ顔して公園を散歩してたら、だだっ広い公園なのに、”歩道に自転車を停めたら通行人の迷惑です。心当たりの人は至急動かして下さい!”、という園内のアナウンスが!...
”な、なぬっ、こんなにうじゃうじゃ人が居るというのに見てたのか?!...う、う、うっ...シカトしよ、うじゃうじゃに紛れてたら分からないって!...し、しかし、どうしたものか、このここに居るすべての人間から裁きの目で見られているような気分...何かに迫られる、重い、苦しい...あ~、分かったよ!、動かしゃいいんだろ!...”
って、いつもこうなってしまう私は悪い人間?、それとも良心的な人間でしょうか?...言えることは、葛藤を抱えることは、決して安くは無いってことです!
この内なる声みたいなものを良心と捉えたりするようですが、多く認識されているものは、純然たる内なるものとは言えないものだと思います。
それは、予め親からであったり、教師から、あるいはどこで知ったのか、どっかの神サマからであったり自分の外からもたらされた倫理道徳観念みたいなものが、意識してか無意識でか心の中に刷り込まされたものじゃないかと思われるのです。
この声に迫られ、責められることは、全く重い、息苦しさを覚えます。これで死ぬ人だって居るのです。
しかし、この内なる声とは、微妙であり、区別するのが難しいもので、もっと優しくある意識状態へと誘うものもあるのです。
それは良心の呵責とは、明らかに受ける感じが違う!...はっきり感じるものは、こちらを責め立てるものじゃないということです。
良心的な重苦しい心情の向こうに、微かにそれを超えて感じられるのは...愛、安らぎの音信...それは私の本来性へと立ち返らせるもののように感じてなりません。
それにより、私の罪なる心は悔い改めに導かれるかも分かりません。
しかし、心の奥からそれを促すものは、道徳観念から来る義務感といったものでは無く、私の本来性に立ち返ったところから、苦さの中に仄かに感じる愛、安らぎの中にあって、自ずから意識が動かされることによるのです。
こういうことは、誰からも教えられたことはありません。
しかし、世の中は、世の中という神は、この天来の声を知らないのです。
多く良心と呼ばれる”法的な声”しか知らない...
すべての裁きが終わらなければ、その天来の声を聞くことは出来ないのでしょうか?