そんなに多くは居ないですが、知人からこのブログを読んで、”何を言っているのかサッパリ分からない“、と言われます。捉えにくいのだとか...
そうでしょうとも!...読み手に中々捉えさせない、ということは当初から意識して書いて来たのです。
宗教、スピに関することが中心ですが、自分に特定の信仰、メソッド、生き方などがあって、それを読者に推奨したりなどしてません。
事実、私は特にそういうものに依拠しておらず、なるべくそういう風なニオイを感じさせないように意識して来たのです。
私は、人に押しつけたり、人からされることもキライなのです。自由で居たいのです。だから人もどう読もうと自由なのです。
しかし最近、“何でこんなコメントもらっちゃうのかなあ?”、と思うことが続けてありまして、“ちゃんと記事の中身を読んでくれているのかなあ?“、と、思わないでもないのですが、上記の理由もあり、別に読んで理解してもらおうとも思っていないのです。
ただ、例えば私はキリスト教を始め、信仰の押し売りは絶対にしたくないのです。だからその押し売り信仰に対するコメントというのは、一寸ズレているな、と感じたことがありました。
又、私はここで何度か、私が自分の思いや行動を律したり、克己する精神に欠けていること、自堕落なこと~これは欠点であると自覚しているのですが~について言って来ました。それでいいんだとはけっして思っていないですが、いつも後ろめたい思いをしないで生きて行こうというのは、ちとムリです!
でも多分私は、どっちかというと良心的に考える人間なんだと思いますよ。その私がいつも克己精神で善行を心掛けて生きていたら、それが出来ない自分を自分で責めてすぐ神経症になってしまうでしょう。
私がいつも書いていることは、そういうこととは別のことです。私が日々信じ、実行していることはですね...そんなものあるか!
現臨だとか、訳の分からないことを言う...その一体何を信じ、どう実行出来るというのでしょう?
じゃ、何をここで伝えようとしているのか?...だからその信仰とかメソッドのことは伝えてなどいないのです。そういう概念とかで分かり、実行に移し変えられるものに捉われないで欲しいのです。
そういうものだったら世の中にゴマンとあるでしょ。信仰、メソッド、克己的生き方...それらに則りたいという方は、自由にそうされたらいいのです。でも...それを押し付けられるのはイヤです!
私はここでそうした特別な色、ニオイというものを残したくないのです。(ヘンな色は既に付いてしまってるかも...)
その大きな理由は...思念に囚われないこと、思いを超えたもののの消息を伝えること、ということに尽きるでしょう。そこに、愛、安らぎ、リアリティがあるから...
否、私が伝えるんじゃない!...人それぞれが、神を信じる人も信じない人も直にそれが伝わって、感じて欲しいと思っているのです。
だから...あなたの神に聞くことが一番なのです。
私が書いていることは、そのためのヨスガのようなものと思って下さい。
随分と独り善がりなこと書いてるこのブログですが、いつの間にか訪問者60万人を超えてもうた!
“ひっかかる“要素など何もないのに...そうか、ひっかかりたくない人がひっかかるのか?
そう、現臨とか訳の分からないものにひっかかっちゃいけません!
手を放さないと!...ほ~ら、ひっかかった!...
そうでしょうとも!...読み手に中々捉えさせない、ということは当初から意識して書いて来たのです。
宗教、スピに関することが中心ですが、自分に特定の信仰、メソッド、生き方などがあって、それを読者に推奨したりなどしてません。
事実、私は特にそういうものに依拠しておらず、なるべくそういう風なニオイを感じさせないように意識して来たのです。
私は、人に押しつけたり、人からされることもキライなのです。自由で居たいのです。だから人もどう読もうと自由なのです。
しかし最近、“何でこんなコメントもらっちゃうのかなあ?”、と思うことが続けてありまして、“ちゃんと記事の中身を読んでくれているのかなあ?“、と、思わないでもないのですが、上記の理由もあり、別に読んで理解してもらおうとも思っていないのです。
ただ、例えば私はキリスト教を始め、信仰の押し売りは絶対にしたくないのです。だからその押し売り信仰に対するコメントというのは、一寸ズレているな、と感じたことがありました。
又、私はここで何度か、私が自分の思いや行動を律したり、克己する精神に欠けていること、自堕落なこと~これは欠点であると自覚しているのですが~について言って来ました。それでいいんだとはけっして思っていないですが、いつも後ろめたい思いをしないで生きて行こうというのは、ちとムリです!
でも多分私は、どっちかというと良心的に考える人間なんだと思いますよ。その私がいつも克己精神で善行を心掛けて生きていたら、それが出来ない自分を自分で責めてすぐ神経症になってしまうでしょう。
私がいつも書いていることは、そういうこととは別のことです。私が日々信じ、実行していることはですね...そんなものあるか!
現臨だとか、訳の分からないことを言う...その一体何を信じ、どう実行出来るというのでしょう?
じゃ、何をここで伝えようとしているのか?...だからその信仰とかメソッドのことは伝えてなどいないのです。そういう概念とかで分かり、実行に移し変えられるものに捉われないで欲しいのです。
そういうものだったら世の中にゴマンとあるでしょ。信仰、メソッド、克己的生き方...それらに則りたいという方は、自由にそうされたらいいのです。でも...それを押し付けられるのはイヤです!
私はここでそうした特別な色、ニオイというものを残したくないのです。(ヘンな色は既に付いてしまってるかも...)
その大きな理由は...思念に囚われないこと、思いを超えたもののの消息を伝えること、ということに尽きるでしょう。そこに、愛、安らぎ、リアリティがあるから...
否、私が伝えるんじゃない!...人それぞれが、神を信じる人も信じない人も直にそれが伝わって、感じて欲しいと思っているのです。
だから...あなたの神に聞くことが一番なのです。
私が書いていることは、そのためのヨスガのようなものと思って下さい。
随分と独り善がりなこと書いてるこのブログですが、いつの間にか訪問者60万人を超えてもうた!
“ひっかかる“要素など何もないのに...そうか、ひっかかりたくない人がひっかかるのか?
そう、現臨とか訳の分からないものにひっかかっちゃいけません!
手を放さないと!...ほ~ら、ひっかかった!...