五木寛之先生の「他力」などの本を読んでいて、“実にその通りだなあ“、と共感させられることが多いのです。
「自分を信じ、自分を愛することから始めるしかないのではないか」
「今の自分はみっともないかもしれないけれど、それをそのまま肯定し、受け入れてみてはどうでしょうか」
然り。ありのままの自分を受け入れる...しかし、人間の自我心は、それが出来ないというのも事実でしょう。
今のダメな、悪い自分を受け入れられないから、正しい、進んだ自分になろうと、そういう境地に到達しようとする...そして、常にそういう自分を周囲にアッピールし続けなければならないのです。つまり自分自身を認めるのでなく、人に認めてもらおうとする訳ですね。
だから、本当は、そういう思いを超えたもの無しにはそうならないとも言えるのです。
これは、自分を信じ、愛し、受け入れることは、神的なものを信じ、愛し、受け入れることと一つということでしょう。
しかし、本当にホントーのことは、信じ、受け入れるも何も、私が“照明“と呼んでいる、常にそういう自分の思いを超えた光に照らされるままに、映し出されるままになっているのです。
だから、ホントはそれを受け入れるしかありません。
これを何かの裁きみたいなものと捉えるか、本当の救いと捉えるかで人生は、天と地ほどの開きがあるように感じられてしまうでしょう。
救い?...だってそうでしょう?...これまでどれだけ、世間の目、人の目を気にしながら、戦々恐々とした気持ちで生きて来たのか、どれだけ自分を周囲に取り繕うことばかりして来たというのでしょうか?
ありのままの“真の“自分で無しに、偽りの自分でいなきゃならなかったのです。
こういうことから、今も毎日のように、自ら命を絶つ人は後を絶たないのです。もうそういう神経症のような精神状態から解放されるのですよ!
神の目は常に光っている、あなたはすべて照らされ、見透かされている!...それ自体あなたに何のお咎めが、苦しみがもたらされると言うのでしょうか?
死んで、地獄に落とされるとでも!...地獄というものは、神を、自分を受け入れない自我心が創造(想像)したものではありませんか?
現実に無いものを思い描いてないで、現存、現臨するものを受け入れてみられよ!...そこにあるのは、生かされているという実感、愛、安らぎといったものばかりではないか?
これが、許されていることでなくて何であろうか?!
これを裁きと取ってしまうあなたは、神を信じ、愛し、受け入れ、そして許してなどいないのです!
神の目はあなたのすべてを明るみに出す...あなたのこれまでの罪を?
こういう神のイメージこそは、世間というアダなる神が作り出したものだということを知らなければなりません。
本当のことを知りたければ、そういう刷り込み、予見からで無しに真っすぐに神を、自分を受け入れてみたらいいでしょう。
これは、真我に目覚めることと同じことです!
神のことも自分のことも分けることなど出来ないのだから!...
「自分を信じ、自分を愛することから始めるしかないのではないか」
「今の自分はみっともないかもしれないけれど、それをそのまま肯定し、受け入れてみてはどうでしょうか」
然り。ありのままの自分を受け入れる...しかし、人間の自我心は、それが出来ないというのも事実でしょう。
今のダメな、悪い自分を受け入れられないから、正しい、進んだ自分になろうと、そういう境地に到達しようとする...そして、常にそういう自分を周囲にアッピールし続けなければならないのです。つまり自分自身を認めるのでなく、人に認めてもらおうとする訳ですね。
だから、本当は、そういう思いを超えたもの無しにはそうならないとも言えるのです。
これは、自分を信じ、愛し、受け入れることは、神的なものを信じ、愛し、受け入れることと一つということでしょう。
しかし、本当にホントーのことは、信じ、受け入れるも何も、私が“照明“と呼んでいる、常にそういう自分の思いを超えた光に照らされるままに、映し出されるままになっているのです。
だから、ホントはそれを受け入れるしかありません。
これを何かの裁きみたいなものと捉えるか、本当の救いと捉えるかで人生は、天と地ほどの開きがあるように感じられてしまうでしょう。
救い?...だってそうでしょう?...これまでどれだけ、世間の目、人の目を気にしながら、戦々恐々とした気持ちで生きて来たのか、どれだけ自分を周囲に取り繕うことばかりして来たというのでしょうか?
ありのままの“真の“自分で無しに、偽りの自分でいなきゃならなかったのです。
こういうことから、今も毎日のように、自ら命を絶つ人は後を絶たないのです。もうそういう神経症のような精神状態から解放されるのですよ!
神の目は常に光っている、あなたはすべて照らされ、見透かされている!...それ自体あなたに何のお咎めが、苦しみがもたらされると言うのでしょうか?
死んで、地獄に落とされるとでも!...地獄というものは、神を、自分を受け入れない自我心が創造(想像)したものではありませんか?
現実に無いものを思い描いてないで、現存、現臨するものを受け入れてみられよ!...そこにあるのは、生かされているという実感、愛、安らぎといったものばかりではないか?
これが、許されていることでなくて何であろうか?!
これを裁きと取ってしまうあなたは、神を信じ、愛し、受け入れ、そして許してなどいないのです!
神の目はあなたのすべてを明るみに出す...あなたのこれまでの罪を?
こういう神のイメージこそは、世間というアダなる神が作り出したものだということを知らなければなりません。
本当のことを知りたければ、そういう刷り込み、予見からで無しに真っすぐに神を、自分を受け入れてみたらいいでしょう。
これは、真我に目覚めることと同じことです!
神のことも自分のことも分けることなど出来ないのだから!...
私はあんまり思考を巡らさないようにして、その根本的なものから離れないようにしているのです。
そこがアプローチの違いなのでしょう。
論理思考の変革とか、かなり私がほとんど意識が向かわないことも指向されているようですね。
違いはそのままで、貴方が自分で得心したことを追及されたらいいと思います。
人は皆、そういう自由な思考、感性のもとに生きているのでしょうから...
分けられないものでありながら、人間は世界を分節して(論理的)思考する特殊な能力を手にしたのでしょう。何もないものからこの(論理的)思考が現れるはずはないのですから、きっと意識→感覚→感情→知性→論理と、たどって来たに違いないないと思うのですね 。ですから論理的思考を改革することで思考を遡ってもう一度分かちがたい意識的思考に立ち返ることは可能ではないかと考えるのです。これが私の言う思考を遡って全一の存在に戻るという意味です。もちろんそこに至った者にとってはばかげた空騒ぎに見えるかもしれませんが、それを必要とする者もいると私には思えるのです。ちなみに論理思考の改革というのは、新たなスケールの概念を理解する五次元世界の認識がつくる空の思想なのです。
人間は、思考だけで生きているのではないですから。
言語化は分節することですが、分節出来ないものを言い表すことは可能でしょう。
それも思考のみでは、言い表すこともそれを理解することも難しいでしょう?
難しく考えなくても、人間は本来、思考だけでなく感性というものがあって生きているのではないでしょうか?
「現感覚と言語化」を読ませていただきました。なんの違和感もなく受け入れられるお話でした。その限りどうやら私達の溝は視点の違いなのかもしれません。リンゴを真上から見るのか真横から見るのかのようなもの、そしてこれが人間同士の接近する限界かもしれませんね。
しかし私はそれでもつながる可能性を追求しているのです。思考によって立ち返る可能性がどこかにあるのではないかという建設的な対話が成り立てばこんなうれしいことはありません。
文節しなければ言語は成り立ちませんね。「言語化」と「分離できないもの」は永遠に相反するものです。しかしそれを押して人間はある意味現臨を傷をつけながらそれを知りそれを伝え合う欲求にさらされる。この性と業を受け入れることが出来るのは信頼と愛しかないということでしょうか。
この辺のことは、「原感覚と言語化」という題で書いてみました。
少し気になったことは、現臨とは現れであり、それにより我々は、思考を超えたものを認識も出来るのですが、“その深奥にあるもの“とか、我々が“その要素とな
る“、というように分節的には感じられないものとして、私は言い表しているのです。
言葉にすると抽象的になりますが、現れという場合、そこに深奥にあるものが感覚され、私が存在するところ、それが現存しているというように、分離出来ないように感じているものなのです。
御明察の通り、二つの源流にはその先があるのですね。
あなた様が常に述べておられるそれ、つまり現臨の本体だと私は思っております。
その言葉をお借りすれば、現臨は一つ、無二の存在です。人間もまたそこに属するものですが、人間という存在そのものが二つの流れ・・・(実はもっと正確に言うと、五つの流れというべきなのですが、それは省略しています)を作り出している。それが思考なのだと考えているのです。
その考えに対して、まだ源流があるだろうというあなた様のお応えに喜びと共に同意いたします。もう少し一緒に歩めると実感いたしました。
この地点から私が学んだものは「気づき」です。思考が一つに紡がれるものは、単なる想像や空想の類ではなくまさに事実そのものでなくてはなりません。そしてそれを満たすものがたった一つだけあるのです。たった今感じていること、考えていること、おかれている環境や立ち居振る舞い、それらが私達の明るみに顕してくれているもの、気づきを投げかけてくれているもの、それを「気づき」と称し、人間が知り得る現臨の深奥にある実像であり力なのだという訳です。源流を眺める第三の目と言えばいいのかもしれません。私達は自分勝手に生きているかも知れませんが、気づきなくしては単なる現臨の要素にすぎません。つまり、いわゆる思考というもの(自分が何をし、何を考えているかを知るということ)は覚醒した現臨という訳ですね。
源流というのは、川のそれであるように、一つのところから出ていて、分けられないもののように感じています。その源は見えません。
だから“物質と空間“に分かれたものは、どうかな?と感じます。
未分のものには、思考のみからの頷き、納得だけでなく、より深い部分からの頷きが先にあるようにかんじるのですが、どうでしょうか?
「思考をたどるとは、思考の源を求めることではないでしょうか?」
激しく同感いたします。この先が、あなた様との分かれ道になるのか、同じ思いであと数歩進めるのかもまた心躍るところです。
私は現在、この源に今まで得られなかった氷解を感じています。思考の源泉には二つあるというのがそれです。
それが心の視点からは(色と空)、科学の視点からは(物質と空間)という二つの源流なのです。
そこから人間という姿を見るとき、神と自分の分離感覚と、分けることのできない神と自分感覚が分裂することなく腑に落とし込めるのです。
私の場合、五次元という思考方法の直観が先にあって、ようやくその秘密に(思考が)納得できるところまでやってこれたという感じです。
真摯な応えに感謝いたします。
でも、どうしてもその思考を超えた、正にそれを、超えさせるあるものを感じずおれません。
それを仮に神と呼んだりしていますが、それは自分と分けることが出来ません。それ無しに自分は存在しないとも言えるのです。
“思考をたどって神に帰る“、というのは、鋭い指摘だと思います。思考はご存じのように自らは捨てることが出来ません。
思考をたどるとは、思考の源を求めることではないでしょうか?
そうたどっていけば、どっかで思考は捨てるのでなく、超えられる、超えせしめるものに出会えると思います。
この問い自体がその答えなき答えにまみれているのですが、いずれにしても、「神と自分は分けることが出来ない!」は素晴らしい言葉で真実を見せてくれていると思いました。
もし思考が神なのならそれを受け入れて包まれている愛の毛布があるのだし、予期せぬものならば、思考を捨てるか思考をたどって神に還らなければならない。そのいずれの道をとっても見えてくるその先の風景がここにある。そんな気がいたしました。ありがとうございます。