守護霊、守護神というと、誰しもが自分という個人が居て、その見えない背後から個人の運命を守り導く霊的存在というものを思い浮かべるでしょう。
その存在を広く世に知らしめた五井先生の教えでは、その守護への感謝などを通じて、その関係を密にすることを重視すれど、それ以上に真の自己の主体性、真我の目覚めへと結び付ける道へは、特に深めて説かれてはいないようです。
これにはどうも、先のような守護の神霊との二元的な関係を抱かせる先入観念が壁となっているように思われます。
しかし、先生の守護神霊の説明には、人間存在の本体とも言うべき”直霊(神の直接的な分かれ)から分かれたもの”、とあるのに留意する必要があるでしょう。(言うまでもないですが、私には神霊界の真実というものは分からないので、こうした話はあくまで仮説、あるいは通説の域を出るものでないことをお含み下さい)
これを踏まえると、真の自己こそは神の直霊たる神霊の方であり、個人である私はその表層的表れということになるではありませんか?
ルドルフ.シュタイナーは「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(アルテ他)という著書で、古代ギリシアにおいて、守護神霊を意味する言葉”ダイモーン”について、特に哲学者ヘラクレイトスを引き合いにして「個人は、ダイモーン的なものの現象形態の一つでしかありえない...」「ダイモーンは、一個の人間存在の内部に引き籠もっていることは出来ない」と著しい言葉を述べています。
ダイモーンは、後期キリスト教では、異教の悪魔的存在と見なされ、今日でも守護神霊的なものは、聖霊と区別されて、その界隈では全く問題にされていません。
この理由は、(表向きには)非キリスト者である私にも分かります。あまりに俗説、通説におもねられて、真の主体性、実存に関わることが少ないからです。
しかし!...それがこの私の本源に関わるもの、そもそもそのもの無しに私が生きることが出来ないものであれば、話は別です!
たとえそれが異教の神々だろうと、阿弥陀如来だろうと...聖霊はキリスト教の独占物なのか?
私の実存と切り離された聖霊が何になるだろうか!?...聖霊の内住という...キリストの聖霊こそは、神我、真我と結び付けられるのではないか?
このことが真に、内実を持って自己の内奥から示されないならば、如何に高尚な神学だろうと、ただの抽象的なお話に過ぎませんよ!
私は先の通り、所謂心霊的な通説を”丸呑み”したりはしません。勿論、頭ごなしに否定もしませんが、(守護霊)は認めざるを得ません!
それは、通説を超えて深い意味で、私を導く霊なるものに他ならないものです。(それは最終的にどこへ導こうとしているのか?)
それは、ダイモーンか聖霊か分からないが、段々私の主体はそっちに取られつつあるのを感じているのは、暑さのセイばかりではないようです...。
その存在を広く世に知らしめた五井先生の教えでは、その守護への感謝などを通じて、その関係を密にすることを重視すれど、それ以上に真の自己の主体性、真我の目覚めへと結び付ける道へは、特に深めて説かれてはいないようです。
これにはどうも、先のような守護の神霊との二元的な関係を抱かせる先入観念が壁となっているように思われます。
しかし、先生の守護神霊の説明には、人間存在の本体とも言うべき”直霊(神の直接的な分かれ)から分かれたもの”、とあるのに留意する必要があるでしょう。(言うまでもないですが、私には神霊界の真実というものは分からないので、こうした話はあくまで仮説、あるいは通説の域を出るものでないことをお含み下さい)
これを踏まえると、真の自己こそは神の直霊たる神霊の方であり、個人である私はその表層的表れということになるではありませんか?
ルドルフ.シュタイナーは「神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀」(アルテ他)という著書で、古代ギリシアにおいて、守護神霊を意味する言葉”ダイモーン”について、特に哲学者ヘラクレイトスを引き合いにして「個人は、ダイモーン的なものの現象形態の一つでしかありえない...」「ダイモーンは、一個の人間存在の内部に引き籠もっていることは出来ない」と著しい言葉を述べています。
ダイモーンは、後期キリスト教では、異教の悪魔的存在と見なされ、今日でも守護神霊的なものは、聖霊と区別されて、その界隈では全く問題にされていません。
この理由は、(表向きには)非キリスト者である私にも分かります。あまりに俗説、通説におもねられて、真の主体性、実存に関わることが少ないからです。
しかし!...それがこの私の本源に関わるもの、そもそもそのもの無しに私が生きることが出来ないものであれば、話は別です!
たとえそれが異教の神々だろうと、阿弥陀如来だろうと...聖霊はキリスト教の独占物なのか?
私の実存と切り離された聖霊が何になるだろうか!?...聖霊の内住という...キリストの聖霊こそは、神我、真我と結び付けられるのではないか?
このことが真に、内実を持って自己の内奥から示されないならば、如何に高尚な神学だろうと、ただの抽象的なお話に過ぎませんよ!
私は先の通り、所謂心霊的な通説を”丸呑み”したりはしません。勿論、頭ごなしに否定もしませんが、(守護霊)は認めざるを得ません!
それは、通説を超えて深い意味で、私を導く霊なるものに他ならないものです。(それは最終的にどこへ導こうとしているのか?)
それは、ダイモーンか聖霊か分からないが、段々私の主体はそっちに取られつつあるのを感じているのは、暑さのセイばかりではないようです...。
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