人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を呼び起こす

2020-11-13 12:07:54 | 祈りと瞑想
いつも言いますように、"意識が向く"ということは、既にそこに向いてしまう何かがあるということです。
私の場合、それは普通に存在論的に在るものというより、ある種のメモリーなんですが、これはただの記憶のことではありません。
心で思い出すものでなく、心の奥(意識の次元というべきか)に植え付けられているもののことです。
それは頭の記憶などよりか、はるかに具体的に感じられるもので、さりとて物体が在るように固定されたものでもない...これを頭の記憶と区別して身体的な、"身に覚える"記憶と言っているのです。
これは、一つの記憶というより、いくつかのものが重ねられ、つながりあっているのですが、自覚される限りでの、その原点というべきものは、昭和54年初頭、突如意識が飛んで行きそうになり、その恐怖から一心不乱に祈っていた時、"私はここに在るよ!"、という声なき声の導きにより、"私はここに在る"と、平安がもたらされた、という件にあったと言えるでしょう。
これが臨むことにより私が現存する、まさにそれは現臨と呼ぶに相応しいものなのでした。
それからしばらくは、そのような不安定な状態が続き、又飛んで行きそうになれば、その感覚を呼び覚ます、覚まされる、ということを繰り返している内、安定を取り戻し、"その感覚に意識が向いたら平安に導かれる"、ということを覚えるようになったのです。
そう、ここでずっと書いているようなことです。(この精神の安定には、当時実修していた、"先天の坐"の効用があったことも付け加えないとならないでしょう)
これは、あたかも精神と身体とが分かれているようなことを書いていますが、事実は全く相関していて、切り離せないことなのです。
これを意識的なものと、ハタラキ的なものと言ってもいいでしょう。ハタラキ的なものとは、道教で言う"気"、インド思想の"プラーナ"、ギリシア語~聖書の"プネウマ"などのことです。
つまり意識が向かうとは、そういう風にハタラくことであり、意識されたところにハタラくとも言えるのです。又意識が中心に集まるとは、気が集まる(道教でそういう表現がある)ことでもあるのです。
現臨という表現にもこの両義があるのは言うまでもありません。言葉にするとどうしても文節的になってしまいますが...要するに私が思うとか、何かをする以前に現臨するものこそが原存、現存しているということです。
だから本当の原体験とは、私の自覚されている意識以前からあるとも言える訳です。
しかし、何も無くて、その原記憶が呼び覚まされるものではありません。
ここに意識的になる必要があります。自覚されるような記憶があれば、アクセスし易いですが、そうでなくとも、人間誰しも神と共なる原体験というものはあるのではないですか?...自分のハートに聞いてみて下さい。
何か懐かしさ、暖かみ、そして惹き付けてやまないもの(これが意識の中心が生まれるということでもある)が感じられてこないでしょうか?
このことが神を呼び起こす、呼び起こされることにつながるのです。
ここで言っていることはすべて自分の意志的な人為的なハタラキのことでなく、無為的なハタラキについて言っているのは言うまでもありません。

40年前くらいの時は、今ほど意識的になっていなかった...言い換えると、精神は意識の根底に根付いていなかったとも言えます。
だからこの間、長期に渡ってあの感覚が自然消滅したようにも感じられたのでしょう。
だけど、もう一つの記憶を辿れば、奥の方でずっと絶えることなく、息づいているものを覚えさせられています。
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