人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神に祈ること

2024-01-23 09:33:59 | 祈りと瞑想
私はいつもこの場で、“ああ、この神的なものの臨在の喩えようの無い愛、幸福、リアリティが読者に伝わればなあ...“、との思いで書かされているのです。(如何せん、言葉の限界、表現の拙さを知らされる次第で!...)
これが私の祈りなのです。
祈りというのは、言うまでもなく思いを超えたものに意識が向けられることです。
しかしながら、何と宗教的世界では、この祈りとは根本的にズレたものが祈りとして捉えられていることでしょうか?
例えば、“私は祈りによって健康が回復しされるようになった、不安から解消されるようになった、危機的状況に合わずに済んだ!“
まあ、そういうことは勿論、誰でも自然に出て来る感情であり、人情としては分かりますよ。祈りの功徳を言っているのですね。
しかし、中には、“祈りによって、目指す何かを達成しました。得ることが出来ました“、いや、“一日何回も何時間も祈ることが出来ました!“、何て曰う向きもあります。これなど神仏の働きも祈りも関係なく、自分の信念、意志力により頼んでいるだけでしょう。所謂自力作善というものです。。
何十年も祈りの行をしていても、祈りと念力の区別が分からないようなのです。こういう人の言葉からは、神的なものにあることの素晴らしさというものは何一つ伝わって来ません。
本来の祈りとは、神にゆだねることであり、自分に神が通ることであり、自分がどうなった、こうなったということじゃないのです。
要するに、祈りとは人間的なものが主導になるものでは無いのです。
かく言う私はね、祈りによって神的な現臨に与ることが出来たのですよ!...しかし、それが十数年間、感じられなくなる、という回り道を辿らされるようなことがありました。
いや、覚醒体験のようなことにも与っているのです。そして数日で元の黙阿弥となった!...
何でそういうことになるのか、今ではハッキリ分かります。
実に神的なもの無しでは絶対にそうならないものが抜け落ちてしまっているからです。
そうなんだ!...神に意識が向けられ、ゆだねることが現臨にあることであり、目覚めていることなんです!
自分がどうなる、こうなるというのはオマケにすぎない!
それでも私は、“祈ることで愛、平安、リアリティに与る“、ということはどうしても強調したいのです。
何故ならば、それは全く、考えている、どうなる、こうなるという自分を超えて、神に直結したものなのだから!...
心の奥で、神を頂こうとしないものが祈りである訳が無いのです。
こんな当たり前の、普通に“神に“祈ることが何と蔑ろにされていることでしょうか?!...
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